コンビニエンスストアの夜――ネオンが滲む曇りガラスの向こう、車のヘッドライトが時折窓を白く照らし、街路の気配が息をひそめている。
自動ドアの隙間から流れ込む湿った夏の夜風には、アスファルトの熱と、かすかなゴミの匂い、そして何か古びた冷蔵庫の金属臭が混じっていた。
天井の蛍光灯は、どこか頼りなく青白い光を放ち、商品のパッケージを硬質な陰影で浮かび上がらせている。
バイトを始めて間もないころ、俺は先輩からこう念を押された。
「おおいさんが来たら、絶対に目を合わせるな」。
その言葉の重みも意味も、慣れない仕事に追われる俺の頭ではすぐに薄れていった。
レジ打ち、品出し、ゴミ捨て。
規則正しい日々の中、おおいさんという名前はどこか都市伝説のように、現実味のない影として記憶の底に沈んでいった。
季節は巡り、コンビニの空気にも新しい匂いが混じる頃。
俺のもとに後輩がやってきた。
制服の袖口から伸びる細い手、緊張でこわばった表情。
自分もこんな風だったろうかと、ふと昔の自分を思い出す。
後輩に仕事を教えながら、人数が増えたことで、夜勤の重圧が少しだけ和らいだ。
ある夜、俺とその後輩は、バックヤードの薄暗い蛍光灯の下、廃棄予定の弁当を分け合っていた。
温めた弁当の湯気が、冷えた空気の中で白く立ちのぼる。
プラスチックの箸がカチカチと弁当箱を叩き、控室の隅には古い段ボールが積み重ねられている。
壁に設置された防犯カメラのモニターには、店内の様子が4分割で映し出されていた。
雑誌コーナーの前では、制服姿の中学生くらいの少年たち3人が、肩を寄せ合って立ち読みをしている。
無邪気な笑い声が、ガラス越しに微かに聞こえる気がした。
別のカメラには、レジ前で彼らを鋭く注視する後輩の姿があった。
万引き防止のため、顔にわずかな緊張が貼り付いている。
弁当を食べ終え、口の中に残る米粒の味を感じながら、俺もモニターのスイッチを切り替えた。
店内の蛍光灯は、夜の闇を押し返すように店内を均等に照らしているが、それでもどこか影が深い。
その時、不意に奇妙な光景が目に入った。
レジ前で、後輩が誰もいない空間に向かって、何度も深々と頭を下げている。
背筋がぞくりとした。
何かがおかしい。
俺の喉が急に渇き、唾を飲み込む音だけが自分の耳に大きく響いた。
次の瞬間、後輩が控室の呼び出しボタンを押し、ブザーがけたたましく鳴った。
「万引きか?」と思い、慌ててバックヤードのドアを押し開けた。
ドアノブの冷たさが指に残る。
店内に出ると、レジの前に見知らぬ中年の男が立っていた。
俺はとっさに、マニュアル通りの大きな声を出した。
「いらっしゃいませ!」
その男は、にこやかな表情で、どこか宙を見ている。
「こんにちはー、おおいさんです」と、妙に子供っぽいイントネーションで言った。
一瞬、背中に冷たいものが走る。
「何を言ってるんだ、この人は?」と、心の中で思う。
すると、後輩がそっと俺の耳元に顔を寄せ、ひそひそ声で囁いた。
「出ましたね。
おおいさん。
店長が言ってた人ですよ。
目を合わせるなって……」
言われた瞬間、脳裏にあの警告が蘇る。
先輩の真剣な顔、低い声、言い知れぬ不気味さ。
おおいさんは、その間もまるで自分の出番を楽しむように、レジ前で身体を揺らしていた。
俺は慌てて視線を雑誌棚の方に逸らす。
心臓の鼓動がドクドクと速くなる。
「えっとねー、まいるどせぶんとー、あとー、このがむとー、からあげちょうだい」
おおいさんの声は、どこか幼児のような無邪気さと、底知れぬ奇妙さが同居していた。
声のトーンは不自然に明るいのに、言葉の間に底冷えするような静寂が挟まれる。
後輩がぎこちなくレジを打っていく間、俺は棚から商品を取り、袋に詰めた。
ふと、おおいさんが俺たちの顔を交互に眺め、「あとねー、どっちかのいのちちょーうだーい」と、冗談のような口調で言った。
空気が一瞬、鉛のように重たくなった。
喉がまた、ひどく渇く。
「申し訳ございません。
当店では取り扱っておりません」
俺は精一杯の作り笑いを浮かべ、深く頭を下げる。
おおいさんは、くすくすと笑い、今度は首を傾げて本棚の方を指差した。
「あそこのさんにんのうちのひとりでいいよー。
いのちちょうーだーい」
雑誌コーナーの3人の中学生は、こちらの様子など気にせず、雑誌に夢中だ。
どう対応すべきか分からず、後輩と目を見合わせる。
互いの瞳の奥に、不安と恐怖が交差する。
「申し訳ございません、彼らは商品ではございませんので……」
俺は再び深々と頭を下げた。
おおいさんは、懐から小銭を取り出し、レジカウンターに置く。
その手つきは、どこか異様に丁寧で、指先がやけに細長く見えた。
「ははは、じゃ、ぜんぶもーらーおっと」
その笑い声は、異様な余韻を残しながら、店内の蛍光灯に吸い込まれていった。
おおいさんが去った後、カウンターには小銭と、何か奇妙な針金細工が3つ、まるで生き物のように捻じれて置かれていた。
銀色の針金が、店内の冷たい光を反射している。
翌日、俺は店長にこの出来事を詳しく伝えた。
店長は、普段は温厚な顔を険しくし、低い声で尋ねた。
「おおいさん、何か置いていかなかったか?」
俺は、拾得物として保管していた針金細工を見せる。
店長はそれをしばらく無言で見つめ、「次におおいさんが来た時、必ず返すように」とだけ言った。
その声音には、何か取り返しのつかないものへの恐れが滲んでいた。
針金細工はバックヤードの分かりやすい棚に置かれた。
夜毎にその存在感がじわじわと増していくように感じる。
翌日の夜勤。
控室の薄明かりの下、後輩が涙目で俺のもとに駆け寄ってきた。
「先輩、針金細工が……動いてます」
バカな、と思いながらも、心臓が不穏に跳ねる。
控室の引き戸をゆっくり開けると、拾得物の箱の中で、3つの針金細工がうねうねと生き物のように動いていた。
まるでミミズが這うような、どこか生理的な嫌悪感を誘う動き。
空気が急に冷たく、重くなり、腕の産毛が逆立つ。
その現象は、数日間――しかも夜だけ続いた。
他の夜勤の先輩たちにも目撃され、「もう触りたくない」と顔を青ざめさせていた。
やがて数日後、針金細工のうち1本が、動きを弱め、ぴくぴくと痙攣するようになった。
死にかけた虫のような、どこか哀れで不吉な動き。
その翌日、近くの交差点で、交通事故が発生したというニュースが流れた。
亡くなったのは、中学生の少年。
運転手の証言によれば、「対向車線のバイクの前に、突然誰かが立った。
バイクが急ブレーキをかけ、制御を失って突っ込んできた」と。
事故現場には、血の匂いと、夏のアスファルトが焼け焦げる臭いが重なっていたのだろう。
さらにその翌日。
夜勤は先輩と店長だった。
おおいさんが再び現れたという。
針金細工を返すため、先輩がバックヤードに向かう。
そのとき、防犯カメラのモニターに異様な光景が映った。
レジの前に、首のない少年の遺体が横たわっていた。
両手は床を這い、何かを探すようにもがいている。
その傍らには、おおいさんが立っていた。
おおいさんの手には、少年の首と思しきものがぶら下がっていたという。
だが、レジの前に戻ると、そこには何もなかった。
先輩も店長も、しばらく声を失ったという。
その後、他のコンビニやレンタルビデオ店でバイトしている友人たちに「おおいさん」について尋ねてみたが、誰も知らなかった。
あの夜の湿度、冷蔵庫の低いうなり、コンクリートの床の冷たさ、妙に明るい蛍光灯の下に広がる影。
すべてが現実だったのか、未だに分からない。
だが、今も時折、あの針金細工のうねりを思い出す。
もしかしたら、どこか別のコンビニにも、「おおいさん」の話がひそかに流れているのかもしれない――。
仕事・学校の話:夜勤コンビニに現れる「おおいさん」――五感と心理で迫る不条理な遭遇と異形の余韻
夜勤コンビニに現れる「おおいさん」――五感と心理で迫る不条理な遭遇と異形の余韻
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