いつもの夜勤の静けさは、どこか底冷えするような寂しさを漂わせていた。
蛍光灯の白い光が、店内の棚や床に淡い影を落としている。
梅雨の湿った夜気が自動ドアから忍びこみ、弁当ケースのガラスに小さな水滴をつけていた。
僕がそのコンビニで働き始めて三ヶ月が過ぎようとしていた。
名前も知らぬ「おおいさん」という存在のことを、最初に耳にしたのは、入社初日のことだった。
「おおいさんが来たら、絶対に目を合わせるなよ」
先輩のその言葉は、冗談交じりのようで、どこか本気の響きを含んでいた。
しかし、仕事を覚えることに手一杯な僕は、その忠告の意味を深く考える余裕もないまま、毎晩シフトに追われていた。
やがて、新人の後輩が入った。
彼に仕事を教えながら、二人で夜のコンビニを守る心強さを、密かに感じていた。
ある晩、僕たちは休憩中にバックヤードの冷たい床に座り、廃棄予定の弁当を無言で口に運んでいた。
プラスチック容器の蓋を外す音だけが、静寂を切り裂く。
防犯カメラのモニターには、制服姿の中学生三人が雑誌棚の前に並んでいるのが映っていた。
彼らの背中は、どこか頼りなく、けれども、どこか不穏な気配も帯びているように見えた。
別のカメラには、レジ前で後輩が不自然に身を固くして、警戒心を剥き出しにしている姿が映っている。
食事を終え、僕はカメラの映像をぼんやりと眺めていた。
すると、レジ前で後輩が、誰もいない空間に向かって小刻みに頭を下げているのが見えた。
まるで、そこに何か不可視の存在が立っているかのように。
「……?」
僕が訝しさを覚えた矢先、店員呼び出しボタンのブザーが、バックヤードの静寂を破った。
「万引きか?」
そう思い、僕は慌てて売場へ駆けだした。
レジの前には、見知らぬ中年の男が立っていた。
くたびれたシャツの襟元から、どこか湿ったような匂いが漂っている。
その人は、ゆっくりとこちらを向き、「こんにちはー、おおいさんです」と、幼い子供のような声で言った。
戸惑いと警戒が、冷たい波のように心を満たす。
「何言ってるんだ、こいつ……」
そう思った瞬間、後輩が僕の耳元でささやいた。
「出ましたね、おおいさん。
店長が言ってた人です。
絶対に目を合わせるなって」
その一言で、僕の中に忘れかけていた先輩の忠告が、鮮やかに蘇る。
僕たちは、互いに視線を泳がせながら、できるだけおおいさんに顔を向けないようにした。
おおいさんは、無邪気で奇妙な調子で注文を始める。
「えっとねー、まいるどせぶんとー、あとー、このがむとー、からあげちょうだい」
後輩がレジを打つ間、僕は棚から商品を集めて袋に詰めた。
背中に冷たい汗が流れる。
やがて、おおいさんは、冗談めかして言った。
「あとねー、どっちかのいのちちょーうだーい」
言葉の意味をすぐには理解できず、僕は作り笑いでごまかした。
「申し訳ございません。
当店では取り扱っておりません」
僕がそう言って頭を下げると、おおいさんは本棚の方へ首を傾けた。
「あそこのさんにんのうちのひとりでいいよー。
いのちちょうーだーい」
その声は、どこか底抜けに明るく、けれども背筋に氷を這わせるような不気味さを孕んでいた。
雑誌に夢中な三人の中学生は、何も知らないままだった。
僕と後輩は顔を見合わせ、大げさに恐縮した態度を取った。
「申し訳ございません。
彼らは商品ではございませんので……」
おおいさんは、ひとしきり笑うと、小銭と一緒に、ねじれた針金細工を三つ、レジカウンターに置いて帰っていった。
その後ろ姿は、どこか宙に浮いているような軽やかさを持っていた。
翌日、僕は店長に昨夜の出来事を伝えた。
店長は深刻な面持ちで尋ねた。
「……おおいさん、何か置いてった?」
僕は、保管しておいた針金細工を見せた。
店長はしばらくそれを凝視した後、「次に来たときに返してくれ」と、バックヤードの棚の上へと置いた。
*
翌晩の夜勤。
控室から後輩が青ざめた顔で飛び出してきた。
「先輩……針金細工が、動いてます」
そんな馬鹿な、と苦笑しつつも、僕は見に行った。
拾得物の箱の中で、三つの針金細工が、まるで生きているかのように、のたうつように動いている。
蛍光灯の下で、銀色の細い線が、ぬるぬると箱の隅へ這っていく。
背中に冷たいものが走った。
数日間、夜になるとその現象は続いた。
他の夜勤の先輩も目撃し、皆、気味悪がっていた。
ある夜、針金細工のうち一本が、突然、動きを弱め、痙攣するように小刻みに震えはじめた。
そして翌日、近くの交差点で、中学生が一人、交通事故で亡くなったというニュースが流れた。
運転手の証言は、不可解なものだった。
「バイクの前に誰かが立っていたんです」と。
さらにその次の夜。
店長と先輩が夜勤に入っていた。
おおいさんが、ふいに現れたという。
針金細工を返すよう、先輩がバックヤードへ取りに行き、防犯カメラのモニターを覗いた。
その瞬間、レジの前に異様な光景が映し出されていた。
首のない少年の遺体が、レジの床に横たわっている。
その手は何かを探すように床をかきむしり、おおいさんの手には、少年の首と思しきものが握られていた。
先輩が慌てて売場に戻ると、そこには何もなかった。
レジの前には、ただ深い夜の静寂だけが広がっていた。
*
その後、他のコンビニや、深夜営業のビデオ店で働く友人たちにも「おおいさん」のことを尋ねてみた。
しかし、誰一人として、その名を知る者はいなかった。
けれども、僕の胸には、あの夜の冷たい風と、奇妙な針金細工の動きが生々しく残り続けていた。
どこかの夜のコンビニにも、同じような影が忍び寄っているのかもしれない。
あの白い蛍光灯の下、誰も知らない物語が、静かに始まり、そして終わっていくのだろう。
仕事・学校の話:深夜のコンビニに訪れる影――おおいさんと三つの針金細工
深夜のコンビニに訪れる影――おおいさんと三つの針金細工
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