大学生時代、私が経験した一つの出来事が、今でも夜更けに思い返すたび身震いさせます。
それは、ありふれた日常と奇妙な非日常の境界が、ある夜を境に音もなく崩れ去った、そんな感覚でした。
あの時分、私は都心からやや離れた地域にある、築40年ほどの8階建てマンションによく通っていました。
そこは友人Aの住まいであり、彼は大学の仲間2人と3LDKの部屋をルームシェアしていました。
外観はくすんだクリーム色のコンクリート。
壁のひび割れや錆びた手すりが、長い年月を静かに物語っていました。
エントランスホールは天井が低く、薄暗い蛍光灯が壁にぼんやりと青白い影を投げかけていました。
床には古ぼけたタイルと、かすかに湿り気を帯びた埃の匂いが漂っていたのを覚えています。
夜になると、外灯はまばらにしか点灯せず、敷地内の植え込みは伸び放題で、闇に包まれた木々の枝が不気味に揺れていました。
葉擦れの音と、遠くで犬が一声鳴くのが耳に残ります。
初めて友人の部屋に招かれた日、私は建物の老朽ぶりに圧倒されました。
管理が行き届いているとは到底思えず、エレベーターの前に立つと、金属扉には何度も塗り直された跡があり、指で触れると微かに冷たくざらついていました。
エレベーターの呼び出しボタンを押すと、鈍く低い電子音が響き、わずかに油の焼けたような匂いが鼻をつきました。
待っている間、頭上の蛍光灯が時折ちらつき、壁面の掲示板には色褪せた管理人からの注意書きが乱雑に貼り付けられていました。
扉がギィィ…と重々しく開くと、その中は薄暗く、床はすり減ったゴムシート。
小さな空間に入ると、空気が僅かにこもっており、誰かの衣服や古い建材の混ざった独特の匂いがこびりついていました。
初めて乗ったその時、私は思わず「このまま止まったら」「ここで閉じ込められたら」と、胸の奥がざわつくのを感じたものです。
掌が汗ばんでいくのを自覚し、無意識に呼吸が浅くなっていくのを感じていました。
そんな不安を打ち消すように、私は壁際の操作盤に目をやり、友人の部屋がある8階のボタンを押そうとした時でした。
廊下の奥から、パタパタと小さな足音が近づいてきました。
振り向くと、4歳か5歳くらいの男の子が、少し大きめのTシャツを着て、両手でズボンを支えながら一生懸命走ってきます。
まだ幼さの残る頬の赤み、髪の毛は寝癖がついたままで、瞳の奥に好奇心と無邪気さが宿っていました。
男の子は背伸びをしてエレベーターのボタンに指先を伸ばしますが、あとほんの数センチ届かない様子。
私は思わず微笑みながら、その様子を見守りました。
「何階に行くのかな?」と声をかけると、男の子は少しはにかみながら「6階!」と答えました。
声は幼いけれど、どこかしっかりとした響きを含んでいました。
私は6階のボタンを押すと、男の子は私を見上げて「ありがとう」と小さく呟きました。
エレベーターがゆっくりと上昇していく間、ワイヤーの軋む音、壁の向こうから伝わる機械の振動が、耳の奥に響いていました。
6階に着くと、男の子は「ちゃんとでてきてくれるかな〜」と独りごとのように囁きながら降りていき、603号室の前でチャイムに手を伸ばします。
ドアの前で背伸びをしながら待つ小さな後ろ姿が、どこか儚げに見えました。
私はそのままエレベーターを使い、友人のいる803号室へと向かいました。
友人の部屋に入ると、壁紙は少し黄ばんでいて、家具もどこか寄せ集めのような雰囲気。
それでも皆で持ち寄ったクッションやラグ、小さな観葉植物が置かれていて、学生らしい温かみのある空間でした。
窓の外には遠く、街の灯りが滲み、静かな夜が広がっていました。
その晩は気心の知れた仲間と宅飲みを始め、他愛もない話に笑い合いながら、時間はあっという間に過ぎていきました。
酔いが回るにつれ、頬は火照り、口の中はわずかに乾いてきて、グラスを握る手にも熱がこもっていました。
深夜3時を回った頃――外は深い静寂に包まれ、窓を開けると冷たく湿った空気が流れ込みました。
コンビニやスーパーは夜通し営業しているものの、このマンションの周囲は、人通りも車の音もほとんど途絶え、静けさが耳鳴りのように響いていました。
私たちは酒が切れたことに気づき、じゃんけんで負けた2人で買い出しに出ることになりました。
エレベーターの前で待っていると、昼間と同じように、今度はあの男の子がまた走ってきました。
彼の服装や表情は、昼と同じように見えたものの、深夜の薄暗い廊下に立つ幼い姿は、どこか現実離れした浮遊感をまとっていました。
足音がタイルに反響し、私の背筋はぞくりと冷たくなりました。
頬の火照りが急速に引き、酔いが一瞬で覚めるような感覚でした。
午前3時、こんな時間に小さな子供が1人でエレベーターを待っている――その異様さに、私の心臓は早鐘のように高鳴り、頭の隅で警鐘が鳴り響きます。
「たしか…6階だったよね?」と声をかけると、男の子は首を横に振り、「ううん。
7階だよ」と静かに答えました。
その声は、どこか遠くから聞こえるような、かすかな残響を伴っていました。
私は無意識に7階のボタンを押し、扉が開いた瞬間、彼はすっと降りて703号室へ駆けていきました。
今度もまた、あの「ちゃんとでてきてくれるかな〜」という独り言を、まるで呪文のように繰り返しながら、チャイムに手を伸ばしていました。
その後ろ姿は、闇の中に溶けていくように見えました。
買い出しから戻り、私はこの出来事を友人に話さずにはいられませんでした。
友人は眉をひそめ、「603号室には子供はいないはずだよ」と首を傾げます。
念のため先輩にも聞いてみると、「昼間、チャイムが鳴った気はしたけど、誰もいなかった」とぽつり。
部屋の空気は少し重くなり、皆の顔にうっすらと緊張の色が走りました。
私は自分の腕に鳥肌が立っているのを自覚し、無意識に指先をさすりました。
その夜、私たちは何となく落ち着かないまま、夜更けまで過ごしました。
話題を変えても、心のどこかであの男の子の姿が離れませんでした。
午前4時を回った頃、ようやく布団に潜り込もうとしたその時――
「ピンポーン」
部屋に響くチャイムの音が、静けさを鋭く切り裂きました。
背筋が一瞬で凍りつき、呼吸が止まったかのように感じました。
私の心臓は喉元まで跳ね上がり、手足の先まで冷え切っていくのを感じました。
直感が「これは出てはいけない」と全身に警告を発します。
友人の顔も青ざめ、部屋の空気は一気に緊張に満ちました。
しかし、友人は「少しだけ外覗いてみる」と言い、そっと玄関へ向かいました。
その背中を見送りながら、私は布団の中で息を殺し、耳を澄ませました。
玄関のドアノブをそっと回す音、廊下の床板がわずかに軋む音さえ、やけに大きく響いていました。
やがて友人が戻り、「何か見た?まさか子供いた?」と私が問うと、彼は小さく首を振りました。
「いや、誰もいなかったよ」と。
私は安堵の息を吐きましたが――友人は、なおも続けました。
「でも…玄関に近づいた時、小さな声で『ちゃんとでてきてくれるかな〜』って…」
その言葉を聞いた瞬間、私は心臓を鷲掴みにされたような、説明のつかない恐怖に包まれました。
部屋の中の空気は、まるで水の中にいるかのように重く、肌にまとわりつきます。
窓の外はまだ夜の闇に沈み、遠くで誰かの話し声のようなものが、風に乗ってかすかに響く気がしました。
私たちは、もう二度とその夜の話をしませんでした。
あれから私は、その部屋に足を踏み入れることなく、友人も卒業とともに引っ越しました。
あの時、もし玄関を開けていたら、男の子は部屋に入ってきたのか――それとも、私たちが何か不可逆のものと向き合うことになっていたのか。
今でも時折、夢の中であの「ちゃんとでてきてくれるかな〜」という声が遠くから聞こえてくることがあります。
あの夜、私の中に残った恐怖と謎は、まだ終わることのない物語のように、静かに息を潜めています。
怖い話:深夜の古びたマンションで交錯する子供の幻影――感覚と記憶がざわめく一夜の超詳細体験記
深夜の古びたマンションで交錯する子供の幻影――感覚と記憶がざわめく一夜の超詳細体験記
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