怖い話:「ちゃんとでてきてくれるかな」――古びたマンションで夜を待つ

「ちゃんとでてきてくれるかな」――古びたマンションで夜を待つ

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あの夜のことを思い出すたび、胸の奥に冷たい水がしみ込んでいくような気がする。
大学生だった私は、春の宵闇のなか、友人の住む八階建てのマンションへと歩いた。
桜の花びらはとうに散り、街路樹の緑が夜風に揺れていた。
古ぼけた外壁には雨の跡が縞模様を描き、敷地の木々は手入れを忘れられたまま、闇の中でぼんやりとした影となっていた。

 友人の部屋は最上階、八〇三号室。
三つの寝室と広いリビングを、学生三人で分け合っていた。
どの部屋も同じくらいの広さで、壁紙の剥がれや床のきしみが、かえって住む人の気配を濃くしていた。
だが、マンション全体にはどこか時が止まったような、遠い過去の埃が積もっているような、そんな空気があった。

 私は古びたエレベーターの前で立ち止まった。
鉄の扉は鈍い光を返し、ボタンの周囲には無数の指紋が重なっていた。
初めて乗ったときは、もし途中で止まってしまったら――そんな不安が、背中をじっとりと濡らしたものだ。

 ボタンを押すと、低い唸り声とともにエレベーターが到着した。
そのときだった。

 小さな足音が廊下に響き、振り返ると、まだ幼さの残る男の子が駆けてきた。
おそらく四歳か五歳くらいだろう。
目をきらきらと輝かせ、背伸びしてもボタンに指は届かず、もどかしそうに手を伸ばしていた。

「何階に行くの?」
 私はひとりごとのように問うた。

「六階!」
 高く澄んだ声が、がらんどうの廊下に跳ねた。
私は六のボタンを押し、扉が閉まる。

 六階に着くと、男の子は迷いなく六〇三号室へ向かった。
チャイムの前で小さな背中が揺れる。

「ちゃんとでてきてくれるかな〜」
 彼はそうつぶやき、チャイムを押す。
ドアの向こうから人の気配がしたが、私はそのまま八階へ向かった。

 部屋に着くと、友人たちと夜更けまで酒を酌み交わした。
アルコールが回るにつれ、笑い声は重なり、窓の外の闇もやわらいでいくようだった。
だが、時刻は午前三時。
冷蔵庫の底が露わになり、誰からともなく「買い出しに行こう」と声が上がった。

 私は再びエレベーターの前に立つ。
深夜の静けさは、昼間とは違う色をしていた。
空気に湿り気が増し、廊下の灯りが壁に長い影を落とす。

 エレベーターの扉が開くと、またあの男の子が現れた。
パジャマのまま、小さな手には何も持っていない。

 私は一瞬、アルコールのせいで幻を見ているのかと思った。
だが、男の子ははっきりと私を見上げる。

「たしか……六階だったよね?」
「ううん。
七階だよ」
 私は戸惑いながら、七階のボタンを押した。

 七階に着くと、男の子は今度は七〇三号室へ駆けていき、またチャイムを押して呟く。

「ちゃんとでてきてくれるかな〜」
 その声は、夜の廊下に溶けて消えた。

 不安な気持ちを抱えたまま、私は買い物を終えて部屋へ戻った。
友人に「さっきの子、七階だった」と話すと、彼女は首を傾げる。

「六〇三にも、七〇三にも子供なんて住んでないよ」
 先輩も昼間チャイムの音だけは聞いたが、誰も来なかった、と言う。

 私たちは互いに顔を見合わせ、酔いも一気に醒めていった。

 そのとき――
 ピンポーン。

 玄関のチャイムが、誰もいない夜の空気を震わせた。
心臓が跳ね上がる。
理屈ではなく、直感が叫んでいた。
「これは出てはいけない」
 だが、友人は小さく息を吸い、「ちょっとだけ、外を覗いてみる」と言って立ち上がった。

 玄関の扉越しに、静寂が張り詰める。
友人が戻ってきた。

「何か見た?まさか、子供がいた?」
「いや、誰もいなかったよ」
 その言葉に安堵しかけたとき、彼女は続けた。

「……でも、玄関に近づいたら、聞こえたの。
ドアの向こうから――
『ちゃんとでてきてくれるかな〜』って、小さい子供の声が……」

 冷たい何かが背骨を撫でていった。
その夜、私たちは眠れぬまま、白む空を待った。

 あれから、私はあの部屋を訪ねることはなかった。
友人もやがて卒業し、別の街へ引っ越していった。

 もし、あのとき玄関を開けていたら――。

 この問いだけが、今も私の胸の奥で、春の闇のように静かに、重く、沈んでいる。
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