仕事・学校の話:深夜の静寂に現れる影――田舎コンビニで体験した、五感と心理が震える一夜

深夜の静寂に現れる影――田舎コンビニで体験した、五感と心理が震える一夜

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僕がまだ大学生だった頃、地元の人口もまばらな田舎町で、コンビニエンスストアの夜勤バイトをしていたことがある。
その店は国道沿いにぽつんと建ち、昼間は農作業帰りの年配客や学生で賑わうが、日付が変わるころには、まるで世界から切り離されたような静寂に包まれる。
外灯は数少なく、夜になるとガラス張りの店内には蛾や小さな虫が鈍く光る明かりに引き寄せられ、時折パチパチと窓ガラスにぶつかる音がする。
街の灯りは遙か遠く、窓の外は闇が一面に広がっている。
その闇の奥には、何が潜んでいてもおかしくない――そんな不安が、心の奥底に静かに広がっていた。

 深夜の時間帯は、店内に流れる空調の低い唸りと、冷蔵庫の機械音が唯一のBGMだ。
レジ周辺には蛍光灯の白い光が降り注ぐが、奥の本棚や倉庫へ続く通路は、光量が弱まり、影が濃く伸びている。
その影がじわじわと店内を侵食していくのを、僕はいつも意識の隅で感じていた。
外の気温は冷え込み、店内もどこか湿った冷気が漂う。
バックルームの壁は薄く、冷蔵庫から伝わるひんやりした空気が、肌をじわりと這い、体温をわずかに奪っていく。

 その夜も、僕は先輩の北村さんとふたり、バックルームの薄汚れた机を挟んで座っていた。
机の上にはコンビニの安いスナック菓子と、読み古された漫画雑誌。
僕は指先に油がつくのを気にしながらポテトチップスをつまみ、北村さんは低い声でくだらない冗談を飛ばしてくる。
外の闇を忘れるための、ささやかな儀式のようだった。
時折、遠くからトラックのエンジン音がかすかに聞こえてはすぐに消え、また静寂が戻る。
その静寂は、耳鳴りがするほど濃密だった。

 仕事といえば、たまにモニターで店内の様子を確認するくらいだ。
監視モニターは4分割されていて、レジ2台、食料品棚、本棚をそれぞれ別のカメラが映している。
モニターの映像は、薄暗い店内をさらに青白く、冷ややかに切り取っていた。
早朝のパン類の納品まで、僕たちは時間を持て余し、漫然とした会話と沈黙を繰り返していた。

 そんな夜、いつもと同じように雑談をしていたときだった。
ふと何気なくモニターに目をやった瞬間、血の気が引くような違和感を覚えた。
画面の右下――本棚の前に、ひとりの女が立っていた。
腰まで届くほどの長い黒髪。
その髪は光を吸い込むように艶がなく、まるで墨を垂らしたように不自然に真っ直ぐだった。
彼女は背筋を伸ばし、本棚の背表紙を真っ直ぐに見つめている。
白いワンピースの裾が、蛍光灯の光のもとでぼんやりと浮かび上がって見えた。
だが、その姿には何か現実離れしたものがあった。

 「……おかしくねぇか? チャイム、鳴らなかったぞ」
 北村さんの声が、微かに震えを帯びていた。
来客時に鳴るはずの自動ドアのチャイム――それが聞こえなかったのだ。
だが、時々センサーの調子が悪くなることもある。
僕は「またか」と気にしないふりをしつつ、胸の奥に錆びついた釘が刺さるような不安を覚えていた。
しかし、女は動かない。
背中も肩も微動だにせず、ただ何かに取り憑かれたように本棚を見つめている。
ページをめくる音も、足音も何もない。
店内の空気が、急に重く、湿ったものに変わった気がした。

 「……おい、あれ、万引きでも狙ってんじゃないか?」
 北村さんが僕に目配せする。
彼の表情は普段の飄々としたものではなかった。
眉間に深い皺を寄せ、唇はきつく結ばれている。
僕は無言で頷くしかなかった。
心臓が、静かに、しかし確実に速く打ち始めていた。
何かがおかしい――だが、その正体はまだ形を取らないまま、僕の心の奥で蠢いていた。

 僕たちは、言葉少なにバックルームを出た。
北村さんはレジ側の通路から、僕はバックルームの出入り口から、本棚の島を挟み撃ちする形で向かう。
床のタイルは冷たく、歩くたびに靴底がかすかに軋む音が店内に響く。
冷蔵棚を横目に、本棚のある島へ近づく。
そこはガラス窓に面した一角で、外の闇がまるで生き物のようにガラス越しにこちらを覗いているようだった。

 本棚の前に到着し、北村さんと目が合った。
しかし、そこには誰もいなかった。
空気が凍りつく。
確かに、僕たちは二方向から挟み撃ちにしたはずだ。
なのに、女の姿は微塵もない。
目の前の本棚には、先ほどまでの異様な気配すら残っていない。
ただ、ガラス窓に僕たちの顔がぼんやりと映っているだけだった。

 「……どこ行った?」
 声が小さく震えた。
すると、店の奥、トイレの方から水を流す音が聞こえてきた。
直線的なその音は、静まり返った店内で異様に大きく響いた。

 「なんだ、トイレか……」
 北村さんの声に、僕は無理やり納得しようとした。
だが心の奥では、何かがねじれているような感覚が消えなかった。

 僕たちは再びバックルームへ戻った。
部屋に入ると、妙に冷たい空気が漂っているのに気づいた。
普段は感じない湿り気が、背中にまとわりつく。
僕たちは無言でモニターを見つめた。
そして、次の瞬間、心臓が跳ね上がった。

 ――女は、さっきと全く同じ場所、本棚の前に立っていた。

 その姿勢も、髪の流れも、何も変わっていない。
トイレから戻ったとは思えない速さだ。
いや、それどころか、彼女は一歩も動いていないようにさえ見える。
僕は思わず喉を鳴らした。
全身の筋肉が強張り、背骨を冷たいものが這い上がる。

 「おかしい……これ、もしかしてモニターが過去の映像を映してんのか?」
 北村さんが小声で呟く。
彼の声はいつになく低く、張り詰めていた。
僕は無言で首を振り、もう一度挟み撃ちで本棚へ向かうことに同意した。

 再び、僕たちはゆっくりとバックルームを出た。
今度は、呼吸の音さえ大きく感じる。
床の冷たさ、空気の重み、手にじっとりと滲む汗。
今度こそ何かに出くわす予感が、全身を締めつけてゆく。
しかし、本棚の前には、やはり誰もいなかった。

 沈黙が重くのしかかる。
本棚の背表紙を指先でなぞると、紙のざらりとした質感が指に伝わる。
だが、その感触さえ現実離れしているようだった。

 僕たちは、何も言わずバックルームへ戻った。
ドアを閉めると同時に、急に空気が重くなった気がした。

 「……あ! いなくなってるぞ」
 北村さんが、小さく叫んだ。

 モニターを見ると、女の姿は消えていた。
胸をなでおろしかけた、そのときだった。

 突然、全身に鳥肌が立つような悪寒が走った。
僕は息を呑み、北村さんの横に顔を近づけてモニターを覗き込む。

 「……待て、動くな」
 北村さんの声が、今まで聞いたことのないほど低く、押し殺されていた。
僕は反射的に「は?」と呟いた。
しかし、彼の目はモニターから微動だにせず、表情は青ざめていた。
目だけがこちらを鋭く見ている。

 その視線に、僕の呼吸は浅くなった。
喉の奥が乾き、舌が歯茎に張り付く。
手足が冷たく、指先がかすかに震える。

 「……いいか、絶対に振り向くなよ。
いま」
 北村さんの声が、さらに低くなった。
なぜ? 何が? 脳裏に疑問が渦巻くが、体が動かない。
僕はただ、モニターを凝視した。

 そのとき、モニターのガラス面に、僕と北村さんの顔がぼんやりと反射しているのが見えた。
そして、その中心――二人の顔の間に、もう一つの顔、女の顔が映り込んでいた。

 無表情で、目だけがぎょろりと動いている。
唇は小さく動き、何かを呟いている。
耳には何も聞こえないのに、言葉が脳に直接響いてくるような感覚。

 僕は悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえた。
心臓が張り裂けそうなほど速く打っている。
背中に冷たい汗が流れ、膝がわずかに震えた。

 女の顔は、僕たちの反射と重なり合い、現実の境界がぼやけていく。

 数分間――いや、体感では何時間にも感じられた――僕たちはその場に釘付けになったまま、じっと耐えた。
女は何かを呟き続けている。
空気が重く、肌が粟立つ。
やがて、女の顔がすっと遠ざかる気配がした。
空気がわずかに軽くなる。

 「……もういいぞ」
 北村さんの声に、僕はやっと呼吸を取り戻した。
おそるおそる振り返ると、そこには誰もいなかった。
だが、空気はまだ重苦しく、店内の蛍光灯の光さえ、どこか濁って見える。
心臓の鼓動だけが、耳の奥で大きく鳴っている。
僕は、モニターの置かれたテーブルに手をつき、足元の感覚を確かめた。

 「ここって……なんか出るんかなぁ」
 北村さんが、気の抜けた声で呟いた。
その声は、さっきまでの張り詰めたものとは違い、どこか虚脱感が漂っていた。
僕はそれに力なく同意した。

 「そうですね……」

 だが、その安堵も束の間だった。
北村さんが、突然大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
彼の目は大きく見開かれ、明らかにモニターに釘付けになっている。
僕もその視線を追い、画面を見やった。

 そこには――さっきの女が、カメラの方を向いて、異様に大きな口を開け、ニタァ〜っと笑っている姿が映っていた。

 その笑みは、人の感情とはかけ離れていた。
歯茎がむき出しになり、頬が不自然に引きつっている。
口角は耳の下まで裂けているかのようだった。
画面越しに、冷たいものが背骨を這い上がる。
僕たちは、声も出せず、息を呑んだ。

 次の瞬間、僕と北村さんは、まるで合図でもしたかのように、同時に裏口へと駆け出していた。
ドアノブを掴む手が冷たく、力が入りすぎて指先が痛い。
夜風が頬を打ち、外の空気の冷たさが肺に突き刺さる。
店の裏手に出ると、僕たちはしばらく言葉も出せず、肩で荒い息をついた。

 空にはまだ星が滲み、遠くで犬が一声吠えた。
僕の耳には、まだあの女の呟きが残響のように残っていた。

 明け方、配達トラックのエンジン音が近づいてきた頃、僕たちはようやく店に戻った。
店内は静まり返り、さっきまでの恐ろしい出来事が嘘のように、何事もなかったかのような顔をしていた。

 しかし、僕の心の奥には、あの夜の重苦しい空気と、モニター越しに見たあの歪んだ笑顔が、今も剥がれないシミのように残り続けている。

 今では、あれは現実の出来事だったのか、夢だったのかさえわからない。
ただ一つ確かなのは――あの夜、僕は「この世には説明のつかない何かがある」と、心の底から思い知らされたのだ。
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