夜の底は、静寂という名の羽毛に包まれていた。
田舎町の外れに佇むそのコンビニは、まるで世界から忘れ去られたような場所だった。
ネオンの光が夜露に滲み、窓ガラスの向こうには沈黙ばかりが広がっていた。
僕がそこにいたのは、まだ若さのほろ苦い残り香が胸の内に満ちていた時分のことだ。
深夜のシフトは、眠気と退屈とが交互にやってきては、心の琴線を緩やかに揺らす。
先輩と二人、バックルームの薄暗がりで並んで座り、漫画のページをめくる音と、時折かじるスナック菓子の咀嚼音だけが小さな宇宙を満たしていた。
ときおり、レジ横のモニターをぼんやり眺める。
それは四つに分割された映像で、レジ、食料品棚、本棚、そしてもうひとつのレジを映している。
夜が更けるほどに人影は消え、静けさだけが画面に積もっていった。
僕らは小声で身の上話や、くだらない冗談を交わした。
外は風の音さえ遠い。
ある夜のことだ。
お菓子の袋を指先でしごきながら、僕はふとモニターに視線を落とした。
「先輩、誰か……本棚にいません?」
レジの鈴も鳴らなかった。
だが確かに、画面の向こう、本棚の影に、女の人が立っていた。
腰まである長い黒髪。
白っぽいワンピースの裾が、蛍光灯の光にぼんやりと浮かんでいた。
「……変だな。
チャイム、鳴らなかったよな」
先輩が呟く。
だが、チャイムが鳴らないことも稀にある。
僕らはそれ以上気にせず、会話を続けた。
けれども、女は本棚の前から動こうとしなかった。
本を手に取るでもなく、ただじっと背筋を伸ばしたまま、棚を見つめている。
「……万引きかもしれんぞ」
先輩が低く言う。
僕は無言で頷いた。
女の姿に、どこかこの世のものではない陰りを感じていた。
僕らは無言の合図を交わし、二手に分かれて本棚を挟み撃ちにすることにした。
僕はバックルームの出入り口から、先輩はレジ側から。
冷蔵棚のガラス扉に、二人の緊張した顔が映る。
夜気は冷たく、心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。
しかし、角を曲がり本棚に辿り着いたとき、そこには誰もいなかった。
先輩と目が合う。
どちらも、言葉を失っていた。
絶対に挟み撃ちにしたはずなのに――おかしい。
背筋に、冷たいものが這い上がる。
そのとき、トイレの方から水の流れる音が聞こえた。
「なあ、トイレに行ったんじゃないか」
先輩の声はわずかに安堵を含んでいた。
僕らはバックルームへ引き返す。
だが、モニターに映る光景は、僕らの安堵を一瞬で凍らせた。
さっきとまったく同じ場所に、女は立ち尽くしていた。
微動だにせず、本棚の前で。
時間というものが、彼女のためだけに止まったようだった。
――早い、戻るには明らかに無理がある。
背中がじっとりと汗ばむ。
僕は先輩と顔を見合わせた。
まさか、モニターが過去の映像を流しているのでは――そんな疑念すら湧いた。
「もう一度、行くぞ」
先輩の声が、ひどく小さく震えていた。
僕らは再び同じ手順で本棚を挟む。
しかし、やはり、女の姿はなかった。
冷蔵棚のガラスに映る自分の顔が、どこか他人のように見えた。
無言のまま、僕はバックルームへ戻った。
今度は何も言わず、ただモニターを見つめる。
先輩の手が、画面に貼り付くように止まった。
「あ……いなくなってる」
女の姿は、消えていた。
だが、安堵は刹那の幻にすぎなかった。
僕の内側に、説明のつかない悪寒が這い寄る。
先輩の横顔に顔を寄せて、もう一度モニターを見た。
「動くな」
先輩が、押し殺した声で言う。
その声音に、刃のような緊迫があった。
「……は?」
思わず返す。
けれど、先輩は動かない。
目だけが、僕を見た。
その顔色は悪く、唇がかすかに震えていた。
「絶対に、振り向くなよ。
いま」
背筋に氷を流されたような感覚が走った。
僕は、画面に映る自分と先輩の顔を見つめる。
蛍光灯の反射――その間に、もう一つ、女の顔が、じっとこちらを見つめていた。
唇が、ゆっくりと歪む。
不気味な微笑。
その輪郭が、闇よりも濃い影を落としていた。
息を殺し、全身を硬直させたまま、僕は時間がどれほど経ったのかも分からなくなった。
女は何かを呟き、音もなく離れていく気配があった。
やがて、先輩が「もういいぞ」と囁いた。
恐る恐る振り返ると、そこには誰もいなかった。
心臓の音だけが、静寂に反響している。
僕は無意識に、モニターの置かれたテーブルに手をついていた。
「ここって……なんか、出るんかなぁ」
先輩が、気の抜けた声で呟いた。
僕は深く息を吐き、脱力感のにじむ声で「そうですね」とだけ応じた。
そのとき、先輩が急にテーブルから身を離した。
僕はその視線を追い、モニターに目を向ける。
画面の中――あの女が、こちらを向いていた。
今度は、はっきりとカメラの方へ。
唇は大きく裂け、歯を見せてニタァ、と笑っている。
僕と先輩は、声も上げずに裏口へ駆け出した。
夜気を切り裂き、闇の中へ逃げた。
コンビニのネオンが背後で震えていた。
明け方、配達のトラックが店先に横付けされる頃、僕らはようやく戻った。
店内には、誰もいなかった。
あの夜の出来事は、今となっては現実味のない幻のように思える。
だが、僕の中では、あの女の笑みが今もなお、夜の底で静かに揺れている。
仕事・学校の話:深夜のコンビニにて、薄闇の女が微笑むとき
深夜のコンビニにて、薄闇の女が微笑むとき
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