切ない話:喪失と再生のディズニーランド:子を失った夫婦が五感で辿る奇跡の一日

喪失と再生のディズニーランド:子を失った夫婦が五感で辿る奇跡の一日

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朝の光がまだ弱く、窓辺から差し込むそれはぼんやりとした灰色だった。
A課長——本名は加藤誠——は、その光の中で、無意識に指先でカーテンの端をつまみ、手触りの粗さを確かめていた。
隣のベッドにいるはずの妻、由美子は、彼の気配に気づくこともなく、背中を向けたまま小さく丸まっている。
部屋の空気には、何日も換気されずに滞留した湿り気と、微かに消毒液のような匂いが混じっていた。

 それは、わずか数ヶ月前までは想像もできなかった朝だった。
ほんの半年前、2人の間には、天使のような微笑みを浮かべる息子、祐太がいた。
5歳になったばかりの彼は、幼稚園の年中組で、泥だらけの手で「パパ、見て!」と駆け寄ってきた日々を、誠は今も鮮明に思い出せる。
あの日、病院の白い壁の内側で、医師から「原因は不明ですが…」と告げられた瞬間、世界が音もなく崩れ落ちていった。

 祐太の病状は、まるで砂時計の砂が零れるように、静かで残酷な進行だった。
医療機器の電子音、薬品の鋭い匂い、点滴の管を握る小さな手——誠は、仕事に追われ、病院に通えぬ日々、自分の無力さに苛まれた。
子供が亡くなったあの日、由美子は、声にならない叫びをあげ、誠の胸を叩き、時に壁に拳を打ちつけた。
誠はその全てを受け止めるしかなかった。
由美子の行為が時に激しさを増し、まるで彼自身が加害者であるかのように責められた夜もあった。
その度、誠は静かに目を閉じ、冷えた床に座り込んだ。
指先は氷のように冷たく、鼓動だけが耳の奥で重く響いていた。
夫婦の間に漂う沈黙は、言葉よりもはるかに重かった。

 祐太がいなくなった日々は、家の至る所に空白を生み出していた。
食卓の椅子、まだ外しきれない幼稚園バッグ、壁に貼られた落書き。
かすかな埃の匂いと共に、それらはいつも二人の視界の端に残り、何気ない瞬間に胸を締め付けた。

 祐太の誕生日が近づくにつれて、由美子の精神はますます不安定になった。
夜中に突然泣き出し、枕を濡らす日もあれば、朝、無言のまま食器を割ってしまうこともあった。
誠自身も仕事に逃げるような日々。
会社の机に肘をつき、目の前の書類が霞んで見える。
彼の脳裏には、「いずれ退院したらディズニーに行こう」という、あまりにも楽観的だった約束だけが、空虚に繰り返されていた。

 誠が涙を流した夜があった。
胸の奥から湧き上がる悲しみを抑えきれず、「ゼロになるとは信じられない」と、嗄れた声で呟いた。
手のひらを握りしめたその感触は、何も残らない虚無そのものだった。

 そんなある日、祐太の誕生日を目前にして、誠はふと「ディズニーランドに行こうか」と切り出した。
由美子は無表情のまま、しばらく沈黙し、「……本当に、行くの?」と搾り出すように尋ねた。
彼女の声は、普段よりも低く、どこか遠くから響いてくるようだった。
誠は「毎年祝ってきたから、今年も……」と言葉を繋ぎ、目を合わせられずにうつむいた。

 当日の朝。
空は薄曇りで、冷たい風が頬をなでる。
駅までの道、2人は互いに話すことなく歩いた。
歩道の脇で桜の花びらが舞い落ち、アスファルトに貼り付いていた。
ディズニーランドへ向かう電車の中、車輪の振動が座席を伝い、膝の上で組んだ手が小刻みに揺れる。
周囲には親子連れの笑い声。
誠はその明るい声が、鼓膜を突き刺すように感じた。
由美子は窓の外を見つめ、指先を強く握りしめていた。
彼女の手の甲には、薄い静脈が浮き出ていた。

 ゲートをくぐると、カラフルなバルーン、きらびやかなミッキーの装飾、そして人々の笑顔。
だが、誠にとってその全てが別世界のもののように思えた。
耳に届くのは、遠くで鳴るパレードの音楽。
けれど、心には何も響かなかった。
レストランの予約時刻まで、園内を歩く2人。
ベビーカーを押す母親の姿、小さな手を引いて歩く父親の姿が至る所にあった。
誠はその度、胸を締め付けられ、視界が滲んだ。
「来なければよかった」——心の奥底で、何度も自分を責めた。

 一方、由美子もまた、歩みを止めて「もう帰ろうよ」と呟いた。
声は震えていた。
2人の間の空気は、氷のようにひんやりと重く、まるで言葉ひとつで壊れてしまいそうな緊張感が漂っていた。

 それでも、誠は予約していたレストランへ、重い足取りで向かった。
店の前で、キャストに声をかける。
「……去年、子供を亡くしたんです。
今日は、その子の誕生日で……」説明する間、誠の喉は乾き、唇はひび割れていた。
キャストは一瞬、驚きの色を見せたが、すぐに柔らかな微笑みと共に「かしこまりました」とだけ答えた。

 席に通された2人。
テーブルには三人分の食器が静かに並べられ、その光景に誠は言葉を失った。
少しして、店員がそっと、祐太の好きだった苺のショートケーキを運んできた。
上には小さなチョコレートプレート。
「Happy Birthday Yuta」と、優しい筆致で書かれている。
周囲の客たちも、キャストの呼びかけで、そっと歌い始めた。
「ハッピーバースデー」の調べが、静かに、しかし確かに店内を満たしていく。
その声は、どこか遠くから祐太が微笑みかけているようにさえ感じられた。

 誠は涙を堪えきれず、頬を伝う雫を手でぬぐった。
由美子もまた、嗚咽を押し殺し、肩を震わせていた。
その時、2人の間に流れていた冷たい空気が、ほんの少しだけ和らいだような気がした。
祐太は、もうこの世にはいない。
それでも、彼の存在は確かにここにあり、2人を繋げてくれている——そう感じた。

 食事を終え、誠と由美子は、しばらくテーブルに手を重ねて座っていた。
帰り道、パークの出口に向かう途中、誠はふと空を見上げた。
夕暮れの空に、淡いオレンジ色が広がっていた。
「間違っていたかもしれない」と、小さな声で呟く。
由美子は彼の手をそっと握りしめた。
2人は、祐太の思い出を胸に、奇跡を信じて、肩を寄せ合いながらディズニーランドを後にした。

 パークの外に出ても、頬に残る涙の痕はしばらく乾かなかった。
だが、心の奥底で、ほんのわずかに、明日への希望の灯がともった気がした。
失ったものは戻らない。
それでも、人は手を取り合い、前へ進むことができるのだ、と——。
読了
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