切ない話:失われた手を、ふたたび――ディズニーランドの誕生日

失われた手を、ふたたび――ディズニーランドの誕生日

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朝靄が町を薄絹のように覆い、まだ目覚めきらぬ世界の片隅で、Aは静かにネクタイを締めていた。
部屋の奥から、かすかに食器の触れ合う音が聞こえる。
時計の針はためらうように進み、時の流れさえ躊躇しているかのようだった。

 その日も、A課長の家には沈黙が張りつめていた。
その沈黙の底に、かつて息づいていた幼い声が蘇ることは、もうなかった。
数か月前、五歳の息子を失った。
原因は誰にも分からなかった。
不治の病とだけ、医師は言った。
真綿で首を絞めるような日々の果て、ある朝、息子は静かに息を引き取った。

 子どもの死は、Aと妻の心を深く裂いた。
妻の瞳は、光を失い、乾いた湖のように沈黙し続けた。
Aは仕事に逃げた。
妻は、家で耐えきれぬ悲しみに押し潰されていた。
ときに、その悲しみはAへの激しい暴力となって噴き出した。
夜ごと、叫び声と物音が壁を震わせた。
Aはただ黙って、拳の痛みや罵声を受け止めた。
痛みの向こうに、妻の絶望が見えたからだ。
涙は流れなかった。
ただ、無言のまま互いの孤独を見つめ合う日々が続いた。

 「いずれ退院したら、ディズニーランドに行こう。


 Aは、あの時、軽い気持ちでそう言っただけだった。
だが、退院する日は二度と来なかった。
突然の訃報。
小さな体のぬくもりが、音もなく消えた日に、Aの心の中で何かが音を立てて崩れた。
妻の嗚咽が、壁の向こうから響いた。

 喧嘩は、日常になった。
言葉は鋭利で、互いを傷つけ合った。
時にAも、耐えきれず言い返した。
夫婦でいながら、もうどちらも、手を伸ばせば触れられる場所にはいなかった。

 「ゼロになるなんて、信じられないんだ。


 ある晩、Aは自分でも驚くほど素直に、涙ながらにそう呟いた。
失われたものの重さは、言葉にすればするほど、無慈悲に胸を圧迫した。

 *

 季節は移ろい、桜の花びらが風に舞う頃、Aは決心した。
亡き子の誕生日が、間もなくやってくる。
その日だけは、例年通りディズニーランドで祝いたい――そんな思いが、彼を突き動かした。

 「ディズニーランドに、行こうか」

 Aの声は掠れていた。
妻はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
ふたりは、いつものように息子の好きだった服と、家族三人分のチケットを用意した。

 朝、改札を抜けると、ディズニーのあの甘い香りが鼻をくすぐった。
遠くで子どもの歓声が響く。
色とりどりの風船が空に舞い上がり、まるで失われた時間のかけらが、まだこの世に漂っているかのようだった。

 アトラクションの列に並ぶ親子を見かけるたびに、妻は顔を伏せ、Aは拳を強く握りしめた。
「来なければよかった」そんな言葉が心に浮かび、Aは自分を責めた。
妻は「帰ろうよ」と呟き、ふたりの間に深い溝が横たわった。

 だが、予約していたレストランへ向かう時間が来た。
Aは、心のどこかで、今日こそ何かが変わるかもしれないと信じたかった。
店内は柔らかな光に包まれ、遠くでピアノが小さくメロディを奏でていた。

 席に着き、Aは小声でキャストに事情を話した。
「去年、息子を亡くしました。
今日はその子の誕生日で……」キャストは静かに頷き、やがてテーブルには、三人分の食事と、小さなバースデーケーキが運ばれてきた。
ケーキの上には、息子の名がそっと記されていた。

 「おめでとうございます」と、周囲の客たちが、同じように歌い始めた。
ハッピーバースデーの歌が、店内に優しく広がる。
Aと妻は、涙が溢れそうになるのを、ただ必死にこらえていた。
息子の席だけが空いている。
その空白が、今だけは温かく包まれているように思えた。

 Aは、手を伸ばし、妻の手をそっと握った。
妻は驚いたように顔を上げ、そして静かに頷いた。
ふたりの間に、かすかな温もりが戻り始めていた。

 「きっと、間違っていたのかもしれないね」

 妻がぽつりと呟いた。
Aは、涙に滲む視界の中で、もう一度妻の手を強く握った。
失われたものは、決して戻らない。
けれど、思い出と共に生きていくことはできる。
そう信じたかった。

 外に出ると、夕焼けがディズニーランドの街並みを茜色に染めていた。
観覧車のシルエットが、ゆっくりと空に浮かび上がる。
冷たい風が、ふたりの間に吹き抜ける。

 それでもAたちは、手を取り合い、歩き出した。
奇跡は、いつかまた訪れる。
そう信じながら。
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