怖い話:春の微睡み、涙の巫女と名もなき神社で

春の微睡み、涙の巫女と名もなき神社で

📚 小説 に変換して表示中
──朝の光は、薄いカーテン越しに部屋を満たしていた。
埃が舞うのが見え、その粒一つひとつが私の過去の断片のようにも思えた。

 先週、私は妻と別れた。
いや、正確には離婚届の捺印を終えた瞬間から、元妻と呼ぶべきなのだろう。
幼い娘は、私の元には残されなかった。
生活力がない、という、反論できない現実の前に。

 何もかも、どうでもよかった。
心の奥で何かが音を立てて崩れていった。

 朝靄の残る道を、私はただ歩いた。
歩いた。
ただひたすらに。
行く当てなどなかった。
季節外れの桜が一輪、舗道に落ちていた。
踏みつけることもできず、目を逸らして通りすぎた。

 どこまで歩いたのか、自分でもわからない。
見慣れたはずの街並みが、まるで別人のように私を拒む。
その時だった──
 古びた鳥居が、目の前に現れた。
何度も通ったことのあるはずの道なのに、この神社の存在には気づかなかった。
木々の間から差し込む光が、境内を淡く照らしている。

 私はふらふらと引き寄せられるように、石段を上った。

 死ぬことをぼんやり考えながら。

 冷たい手すりを握ると、現実の重みが指先に伝わってきた。
境内は思いのほか広く、苔むした石畳が続いている。
視線の先、境内の奥に大きな楠があった。
その枝ぶりを眺めながら、私はまたひとつ、ろくでもない考えを巡らせていた。

 そのときだ、
 「ばかっ!」
 突然、背後から声がして、肩を叩かれた。
振り返れば、見知らぬ巫女がそこに立っていた。

 彼女の頬には涙が伝い、その目は春の陽射しのように真っ直ぐだった。
私がただ呆然と立ち尽くしていると、彼女は私の胸を拳で叩きながら、泣き叫んだ。

 「死ぬくらいなら、何でもできるでしょ!」
 その言葉は、私の心の深いところに、鋭く突き刺さった。

 巫女はそのまま駆け出し、小さな社殿の奥に消えた。
私は立ち尽くすことしかできなかった。

 風が静かに木の葉を揺らし、遠くで鳥のさえずりが聞こえた。

 何も考えられなかった。
ただ、涙だけが頬を伝い落ちた。
自分の中に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れ出す。

 どれほどそうしていただろう。

 「……大丈夫かね」
 いつの間にか、神主が私の隣に立っていた。
白い髭に優しげな目元。
私はただ、うなずいた。

 神主は私を社務所の奥へと招き入れ、温かいお茶を淹れてくれた。
湯呑みを手にしたとき、指先が震えていることに気づいた。

 「何か話したいことがあれば、聞くよ」
 私は断片的に、これまでのことを語った。
離婚のこと、娘のこと、仕事のこと。
話しているうちに、心の重石が少しだけ軽くなるのを感じた。

 やがて、私は巫女の話をした。
あの涙と、叱責と。
神主は静かに首を振った。

 「うちにはね、巫女はいないんだよ。
もう何年も」
 私は言葉を失った。

 窓の外、春の風が音もなく通り過ぎていく。

 もしかしたら──あれは神様が、迷い込んだ私のために姿を変えて現れてくれたのかもしれない。

 私は、そっと目を閉じた。

 あの巫女に、ありがとうと伝えたくなった。

 社務所を出ると、空は茜色に染まり始めていた。

 明日から、子供の頃に諦めた夢を、もう一度追いかけてみよう。
あの涙の意味を、今なら少しだけわかる気がした。

 神様、巫女さん、神主さん、元妻、そして娘へ。

 静かな感謝が胸に広がる。

 歩みは遅いが、私は前へ進む。

 もう一度、生きてみる。
読了
スワイプして関連記事へ
0%
ホーム
更新順
ランダム
変換
音読
リスト
保存
続きを読む

コメント

まだコメントがありません。最初のコメントを投稿してみませんか?

記事要約(300文字)

ダミー1にテキストを変換しています...

0%
変換中