──朝の光は、薄いカーテン越しに部屋を満たしていた。
埃が舞うのが見え、その粒一つひとつが私の過去の断片のようにも思えた。
先週、私は妻と別れた。
いや、正確には離婚届の捺印を終えた瞬間から、元妻と呼ぶべきなのだろう。
幼い娘は、私の元には残されなかった。
生活力がない、という、反論できない現実の前に。
何もかも、どうでもよかった。
心の奥で何かが音を立てて崩れていった。
朝靄の残る道を、私はただ歩いた。
歩いた。
ただひたすらに。
行く当てなどなかった。
季節外れの桜が一輪、舗道に落ちていた。
踏みつけることもできず、目を逸らして通りすぎた。
どこまで歩いたのか、自分でもわからない。
見慣れたはずの街並みが、まるで別人のように私を拒む。
その時だった──
古びた鳥居が、目の前に現れた。
何度も通ったことのあるはずの道なのに、この神社の存在には気づかなかった。
木々の間から差し込む光が、境内を淡く照らしている。
私はふらふらと引き寄せられるように、石段を上った。
死ぬことをぼんやり考えながら。
冷たい手すりを握ると、現実の重みが指先に伝わってきた。
境内は思いのほか広く、苔むした石畳が続いている。
視線の先、境内の奥に大きな楠があった。
その枝ぶりを眺めながら、私はまたひとつ、ろくでもない考えを巡らせていた。
そのときだ、
「ばかっ!」
突然、背後から声がして、肩を叩かれた。
振り返れば、見知らぬ巫女がそこに立っていた。
彼女の頬には涙が伝い、その目は春の陽射しのように真っ直ぐだった。
私がただ呆然と立ち尽くしていると、彼女は私の胸を拳で叩きながら、泣き叫んだ。
「死ぬくらいなら、何でもできるでしょ!」
その言葉は、私の心の深いところに、鋭く突き刺さった。
巫女はそのまま駆け出し、小さな社殿の奥に消えた。
私は立ち尽くすことしかできなかった。
風が静かに木の葉を揺らし、遠くで鳥のさえずりが聞こえた。
何も考えられなかった。
ただ、涙だけが頬を伝い落ちた。
自分の中に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
どれほどそうしていただろう。
「……大丈夫かね」
いつの間にか、神主が私の隣に立っていた。
白い髭に優しげな目元。
私はただ、うなずいた。
神主は私を社務所の奥へと招き入れ、温かいお茶を淹れてくれた。
湯呑みを手にしたとき、指先が震えていることに気づいた。
「何か話したいことがあれば、聞くよ」
私は断片的に、これまでのことを語った。
離婚のこと、娘のこと、仕事のこと。
話しているうちに、心の重石が少しだけ軽くなるのを感じた。
やがて、私は巫女の話をした。
あの涙と、叱責と。
神主は静かに首を振った。
「うちにはね、巫女はいないんだよ。
もう何年も」
私は言葉を失った。
窓の外、春の風が音もなく通り過ぎていく。
もしかしたら──あれは神様が、迷い込んだ私のために姿を変えて現れてくれたのかもしれない。
私は、そっと目を閉じた。
あの巫女に、ありがとうと伝えたくなった。
社務所を出ると、空は茜色に染まり始めていた。
明日から、子供の頃に諦めた夢を、もう一度追いかけてみよう。
あの涙の意味を、今なら少しだけわかる気がした。
神様、巫女さん、神主さん、元妻、そして娘へ。
静かな感謝が胸に広がる。
歩みは遅いが、私は前へ進む。
もう一度、生きてみる。
怖い話:春の微睡み、涙の巫女と名もなき神社で
春の微睡み、涙の巫女と名もなき神社で
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