あの出来事はいまだに、ふとした瞬間に心の底から這い上がってくる。
思い返すたび、背筋が粟立ち、何か得体の知れないものに心臓を鷲掴みにされるような感覚に襲われる。
あれは本当に現実だったのか、それとも幼い日の幻覚だったのか――。
けれど、五感のすべてが未だに鮮やかにあの日の記憶を呼び起こす。
あの事件が起きたのは、小学校低学年の夏の終わり、まだ蝉の声が町に響いていた季節だった。
両親は何か大人の事情で家を空けることになり、俺は近所でも評判の“おばちゃん”の家に一晩預けられることになった。
あのおばちゃんの家は、古い町並みの中にぽつんと建つ木造の平屋で、障子越しに差し込む西日が畳の上に長く線を描く、どこか懐かしい匂いのする場所だった。
あの日の午後、俺はその家の柴犬――短毛で茶色い、つぶらな瞳が愛らしい犬だった――を連れて、散歩に出かけた。
手に感じるリードのざらつき、犬が歩くたびに草を踏むパリパリとした音、真夏の湿った空気の中で犬の体温がじんわりと伝わってくる。
見知らぬ町の景色は、俺にはまるで異国のようで、電柱の影や、道端の植え込み、家々の塀の色が微妙に違うことさえ新鮮に感じられた。
最初は軽い気持ちだった。
けれど、犬の気まぐれに引っ張られるままに歩いているうち、次第に家からどんどん離れていった。
道は見覚えのない曲がり角をいくつも抜け、頭上には細長い雲が流れていた。
蝉の声が遠ざかるにつれ、胸の中にかすかな不安が湧き上がった。
もともと俺は極度の人見知りで、知らない人に声をかけるなんてとんでもない。
期待した犬も、俺の不安な気配に気づいたのか、だんだんおどおどと立ち止まるようになっていった。
やがて、夕暮れが町を包み始める。
空の色は茜色から群青へと変わり、遠くの家々の窓にオレンジ色の光が灯る。
湿った空気の中に、どこか焦げたような、土と草の混じり合った匂いが漂いはじめた。
自分がどこにいるのか分からない――その実感が、喉の奥をきゅっと締め付ける。
心臓はどくどくと速くなり、掌に汗が滲む。
犬は頼りなさそうに俺を見上げるだけで、何の助けにもならなかった。
そして、あの場所へたどり着く。
薄闇が覆い始めた路地の奥。
そこには二軒が横並びになった空家があった。
壁は灰色に褪せ、窓のガラスは埃でくもっている。
雨戸はほとんど閉ざされ、ただ一つ、玄関脇の窓だけがわずかに開いていた。
空家の前に立つと、途端に空気が変わった。
まるで周囲から音が消え、重たい静寂だけがそこに沈殿していた。
草むらに足を踏み入れると、露で湿った草がズボンにべたりと張り付き、不快な冷たさがじわりと伝わる。
俺は当時、昆虫集めに夢中だった。
だから、不穏な空気を感じながらも、草むらの中に珍しい虫がいるかもしれないと、犬を引きずるようにして庭に足を踏み入れた。
草をかき分ける指先に、湿った土の感触が残る。
虫の羽音も聞こえず、ただ自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
そのとき、犬が突然動かなくなった。
リードを引いても、一歩も動かない。
抱き上げようとしたが、まるで鉛のようにずっしりと重く、腕に犬の体重がのしかかる。
犬の体温が異様に冷たく感じられ、背中に冷たい汗が一筋流れた。
ふと顔を上げると、空家の窓。
そこだけが微かに開いていて、薄暗い室内から人の顔が覗いていた。
髪は乱れて顔にかかり、しかしその輪郭ははっきりと“女”だと分かった。
女は両目をきつく閉じたまま、顔だけをゆっくりと左右に振っている。
まるで何かを拒絶するかのように、なめらかではなくぎこちなく。
窓の隙間から漏れる室内の空気は、湿気と古びた木材の匂いが混じり合い、そこだけ時が止まったように感じられた。
女の動きは機械的で、まるで人間とは思えない異様なリズムで顔が揺れている。
その光景を見た瞬間、恐怖に全身が凍りついた。
喉がひゅっと締まり、叫びたくても声が出ない。
膝がわなわなと震え、腰が抜けて地面に倒れそうになる。
頭の奥で、「これは見てはいけないものだ」という警告が何度も鳴り響いた。
全身の血液が一気に冷たくなり、視界の端が暗くぼやけていく。
だが次の瞬間、何かに突き動かされるように、俺は犬を引きずり、空家の庭から必死で逃げ出した。
背後から、あの女の顔が今にも追いかけてくるような錯覚に襲われ、息を切らしながら走った。
どこをどう通ったのか、記憶は断片的にしか残っていない。
夕闇の中、何度も足をもつれさせながら、ようやくおばちゃんの家まで辿り着くことができた。
玄関の障子を開けたときの、畳の匂いと、ほんのりと残る夕飯の支度の香り。
それが一瞬だけ現実に引き戻してくれた。
しかし、俺は涙目でおばちゃんに、空家で見た女のことを訴えた。
その瞬間、おばちゃんの表情がみるみる険しく変わった。
「なんでそんなとこ入ったんや!」
怒鳴り声は普段の優しい声色とはまるで異なり、低く、怒りと恐怖が混じっていた。
訳も分からず、俺はすぐに風呂場に連れて行かれ、バリカンで頭を丸坊主にされた。
髪が刈られるたび、頭皮にヒリヒリとした感覚が走る。
涙と汗、シャンプーの香りが混じり、胸が苦しかった。
その後、知らないおっちゃんが呼ばれ、畳の上で何やら呪文のようなものを唱え始めた。
お香の煙がゆらりと漂い、畳にしみ込む線香の匂いが不安をさらに煽る。
おっちゃんの声は、どこか遠くから響いてくるように聞こえた。
俺の心臓は小さくなったように縮こまり、時折、犬の存在を必死に探した。
やがて、両親も呼び出され、家の中は慌ただしい空気に包まれた。
大人たちの低い声が交錯し、俺は畳の端で膝を抱えて小さくなっていた。
柴犬は、結局、その日を境に戻ってこなかった。
“あの女は何だったのか”“なぜ犬は動けなくなったのか”――今でも答えは分からないまま、記憶の底に沈んでいる。
あの空家は今もどこかで、夕暮れの薄闇に閉ざされているのだろうか。
おばちゃん、ごめんなさい。
あれから二度とあの家には行っていない。
最近になって、ふとあの出来事が思い出される。
あの日、俺が見たものは一体――。
未だに全てが謎のままで、恐怖だけが鮮明に心に残っている。
怖い話:夕暮れの空家で見た、記憶の奥底に刻まれた“目を閉じて揺れる女”の幻影と、柴犬と共に迷い込んだ恐怖の一夜
夕暮れの空家で見た、記憶の奥底に刻まれた“目を閉じて揺れる女”の幻影と、柴犬と共に迷い込んだ恐怖の一夜
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