あの夏の夕暮れ、少年は世界の輪郭がぼやける音を聞いていた。
両親が不在の夜、彼は見知らぬ町の小さな家へと預けられていた。
家の主――親しげなおばちゃん――は、気安く彼に微笑み、柴犬の首輪を手渡した。
手触りはごつごつと冷たく、初めて握る革の感触が、少年の掌にじっとりと汗をにじませた。
空はやわらかく翳り、蝉の声が耳の奥で鳴りやまない。
「散歩に行っておいで」と、おばちゃんは言った。
その声に押されるように、少年は犬の後を追って家を出た。
見知らぬ道。
曲がり角ごとに景色は似ていて、彼の心は徐々に不安で満ちていった。
住宅街の舗道には夕立の名残りがまだ残り、歩くたびに靴の裏で水音が小さく跳ねる。
犬は、時おり立ち止まり、何かを嗅ぎ取るように鼻を動かしていたが、少年の心細さには気付く素振りも見せなかった。
やがて、夕闇が町を包みはじめた。
家々の窓には灯りがともり、世界が自分から遠ざかっていくような、ひとりぼっちの感覚が少年の胸にじわりと広がる。
声をかける勇気もなく、ただ歩いた。
ただひたすらに歩いた。
その時だった。
犬が、唐突に立ち止まった。
何かに怯えるように、地面に爪を立て、一歩も動こうとしない。
少年はリードを引くが、犬の体はまるで鉛のように重く、やがてその場にしゃがみ込んでしまった。
少年は、仕方なく犬を抱き上げる。
細い腕にずしりと重さがのしかかり、汗が額を伝う。
ふと、右手の方角に目をやる。
そこには、二軒がつながる空家があった。
朽ちかけた木塀、草に埋もれた庭。
少年は、昆虫網を持たぬ手持ち無沙汰を紛らわせるように、草むらに足を踏み入れた。
もしかしたら、珍しい虫がいるかもしれない――そんな淡い期待だけが、彼を動かした。
草の匂いが濃く、湿った土の感触がスニーカー越しに足を冷やした。
やがて、辺りの景色は夜の帳に沈み、風の音さえ遠くなった。
顔を上げると、そこには奇妙な静寂があった。
空家の窓という窓は、重たく雨戸が閉ざされ、ただひとつ、玄関の向こう側だけが少しだけ開いていた。
その隙間から、女の人が顔をのぞかせている。
その顔は、どこかぼんやりとしていて、記憶の中でさえ輪郭が曖昧だ。
ただ、女であったこと、そして両目をしっかりと閉じていたことだけは、今もはっきりと思い出せる。
彼女は、ゆっくりと、しかし規則的に、顔を左右に振りつづけていた――まるで何かを否定し続けるように、あるいは、見えない何かを追い払うかのように。
ぞわり、と背中を冷たいものが這い上がる。
喉がきしみ、言葉が出ない。
恐怖が、少年の体を石のように固めた。
「ギョエェェェーー!!」と叫びたかった。
けれど、声は闇に呑まれ、彼は腰を抜かしたまま、しばしその場から動けなかった。
やがて、全身を振り絞るようにして、少年は犬を引きずりながら空家から逃げ出した。
草の感触も、夜風のにおいも、すべてが現実から遠ざかる。
世界が、何かの境界を越えてしまったような気がした。
その後の記憶は、まるで霧の奥に隠されている。
どうやっておばちゃんの家へ戻ったのか、彼には思い出せない。
ただ、半泣きで空家の女のことを語ると、おばちゃんは烈火のごとく怒り、「なんでそんなとこに行ったの!」と叫んだ。
訳もわからぬまま、彼はバリカンで丸坊主にされ、知らないおじさんがやってきて、意味不明な呪文のような言葉を聞かされた。
両親も、夜の帳を破って呼び出され、家中が重苦しい空気で満たされた。
もう二度と、あのおばちゃんの家には行かなかった。
犬も、結局帰ってこなかった。
それから幾年もの月日が流れた。
大人になった今も、あの夏の夕暮れの記憶は、湿った土の匂いとともに心の奥底に沈んでいる。
あれはいったい、なんだったのだろう。
答えは、今も夜の闇に沈んだままだ。
怖い話:夕暮れの空家と沈黙する犬──少年が見たもの
夕暮れの空家と沈黙する犬──少年が見たもの
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