春の終わり、君の名を呼ぶ——消えない初恋の記憶

窓の外、春の雨は細く静かに降り続いていた。
桜はもうほとんど散り、歩道には薄桃色の花びらが、まるで誰かの記憶のかけらのように貼りついている。
私はカップに残るぬるい紅茶を見つめ、ふいに思い出す。
あの日、私の初恋が静かに終わったことを。

　第１章　別れの声

「……ごめん、別れてほしい」

　電話越しの彼の声は、春の雨と同じくらい冷たく、遠く響いた。
私は何も言えず、喉の奥で言葉が絡まっていた。
けれど、意地と若さが私を突き動かし、ひどく軽い口調で「いいよ」と応えてしまった。
その瞬間、心の奥で何かがぱたりと倒れる音がした。

　あの頃の私は、未熟で、わがままだった。
彼の優しさに甘えて、何度も無意味な駆け引きをした。
今となれば、小さな自尊心を守るためだけの言葉に、彼がどれほど傷ついたかを思い知る。

　第２章　嘘のやりとり

　半年後、彼からまた電話がかかってきた。
受話器越しの声はかすかに震えていた。

「久しぶり」

「……うん、元気？」

「そっちは？」

「彼氏ができて、すごく幸せ」

　嘘。
そんな人はいなかった。
だけど、彼に弱いところを見せたくなくて、私はまたも強がりの仮面を被った。
沈黙が流れ、遠くで電車の警笛が、まるで寂しげな獣の遠吠えのように響いた。

　第３章　春は終わり、夏も過ぎて

　季節は巡り、気がつけば一年が経っていた。
夏の終わり、彼の友人から一通の連絡が届く。
封筒の中には短い手紙と、彼の死を告げる淡々とした言葉。

「彼はちょうど一年前、肝臓癌で亡くなりました。
一周忌に際し、貴女に知らせてほしいというのが、彼の遺言でした」

　手紙を読み終えた瞬間、全ての音が消えた。
世界が、春の雨のように静かになった。
私は体の奥から冷たさが広がるのを感じた。

　第４章　遺された言葉

　彼の遺書には、幼い字でこう記されていた。

“こんな別れ方しかできなくてごめん。
幸せになってほしい。
愛してる”

　手紙を握る指先が、震えていた。
涙は出なかった。
ただただ、心の中で何かが音を立てて崩れていくのが分かった。

　なぜ、彼は一人で全てを抱え込んで逝ったのだろう。
なぜ、私にその真実を言ってくれなかったのか。
どうして、私に闘うことを許してくれなかったのか。
問いかけたい言葉が、胸の奥で渦を巻いていた。
責めたい。
なのに、その気持ちさえも、どこか遠くの出来事のようで、うまく掴めなかった。

　第５章　時の流れと静けさ

　気がつけば、二年という時間が過ぎていた。
朝靄が街を薄絹のように包む日、私はようやく、彼の優しさを理解できるようになっていた。
苦いコーヒーが、昨夜の後悔とともに喉を通り過ぎていく。

　けれど心の奥底では、まだ感情が追いつかない。
あの日の春の雨の冷たさと、彼の声の余韻が、今も私の内側にしずかに残っている。
きっと私は一生、彼を忘れない。
問いかけ続けるだろう。
あの時、別の答えを選べていたら——そんな後悔が、消えることはない。

　もしも、もう一度だけ会えるなら。
私は彼に優しくしたい。
「愛してる」と、ただ一言、素直に伝えたいのだ。

　春の終わり、窓の外に降る雨は、今日も静かに私の心を濡らしている。