教室の窓から射し込む春の陽射しが、まだ幼さの残る私の頬を淡く照らしていた。
桜の花びらがときおり風に舞いこみ、机の上に静かに落ちてくる。
中学一年の四月。
新しい制服の襟元は固く、胸の奥には名も知らぬ不安と、淡い期待が同居していた。
その春、私は彼に出会った。
私たちのクラスの担任、坂井先生――。
明るく、活気に満ち、いつも全力で私たちに向き合う人だった。
大きな声で笑い、時に冗談を飛ばし、廊下を走る生徒を本気で叱りつける。
その真剣さに、最初は驚き、戸惑いもした。
ある朝、先生が教壇の机を叩き、怒鳴った声が教室の空気を突き刺したとき、私は椅子から飛び上がりそうになったのを覚えている。
けれど――不思議なことに、すぐに私は先生が好きになっていた。
ああ、この人が担任でよかった。
そう思えた出会いは、私の短い人生の中でも、数えるほどしかなかった。
*
夏の陽射しが日に日に強くなり、蝉の声が校庭に溢れ出す頃、私の中で何かが音を立てて崩れ始めた。
言葉にしたことのない苦しみが、日ごと心の奥を蝕んでいった。
いじめ――それが、私の日常にひそやかに忍び込んでいた。
何がきっかけだったのか、今も思い出せない。
ただ、毎朝靴箱に向かう足取りが重くなる。
周囲の視線が針のように刺さる。
昼休みの教室のざわめきが、遠い海鳴りのように聞こえる。
私は誰にも言えなかった。
小学校で一度、勇気を出して打ち明けたことがあったが、その時、何も変わらなかった。
むしろ、無力な自分を思い知らされただけだった。
どうせまた、同じことの繰り返し――。
私は黙ることを選んだ。
ただ、時間が過ぎるのを待つだけの日々。
机の木目を指でなぞりながら、目に映る世界の全てが灰色に褪せていくようだった。
*
ある日の放課後、静まり返った廊下に先生の声が響いた。
「ちょっと、職員室に来てくれるか?」言葉の端に、いつもの明るさはなかった。
職員室の扉の向こう、先生は窓際に立ち、外の夕焼けを背にしていた。
茜色の光が、先生の横顔を優しく染めている。
「いじめのこと、聞いたよ。
」
その声は低く、深く、私の心に届いた。
誰かが話してくれたのだろう。
私は観念し、震える声で全てを話した。
教室で起きたこと、廊下で交わされた言葉、何もかも。
先生は黙ってうなずき、ときに眉をひそめ、ときに拳を強く握りしめていた。
「大体、わかった。
……彼らには、がっつり言っておかなきゃな。
」
その言葉に、私はひそかな安堵を覚えた。
“話し合い”などではなく、先生が本気で彼らに向き合ってくれる――それが、何よりも嬉しかった。
けれど、次の瞬間、先生は静かに呟いた。
「……何で、黙ってたの?」
それは、責めるでも問い詰めるでもなく、ただ、遠くを見るような声だった。
私は言葉を失った。
俯いたまま、机の木目を見つめる。
「気づいてあげられなくて、ごめんな。
」
その一言は、春の雨のように静かで、優しかった。
私は不意に、胸の奥が張り裂けそうになった。
気づけなかったのは先生じゃない、言わなかったのは私の方だった――そんな思いが、喉元まで溢れてきたが、言葉にならなかった。
顔を上げると、先生の目に涙が浮かんでいた。
夕陽の光がその涙をひときわ強く照らし、私の記憶に焼き付けた。
その涙は、今も私の心の奥に、消えずに残っている。
*
いじめは、あっけないほど早く終わった。
先生は加害者たちを本気で叱りつけ、彼らはそれきり静かになった。
私は望んだ通り、親にも知らされなかった。
余計な騒ぎにはしない――それが、何より嬉しかった。
けれど、その後、私は先生と距離を取るようになった。
二年生になり、担任が替わり、廊下ですれ違うことがあっても、私はそっと目を伏せるだけだった。
あのときの涙が、私の中で静かに波紋を広げ続けていたからだ。
卒業式の日、校庭には春の風が吹き抜けていた。
桜の花びらが、私の頬に一枚、そっと触れた。
先生と目が合った。
その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じた。
あの日の涙。
あの静かな声。
忘れることはないだろう。
きっとこれからも、私はあの春の日の痛みと優しさを胸に、生きていくのだ。
切ない話:春の光の向こうに――あの日の涙を忘れない
春の光の向こうに――あの日の涙を忘れない
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