恋愛の話:春の光と影──ひとつの誕生日、ふたつの運命

春の光と影──ひとつの誕生日、ふたつの運命

📚 小説 に変換して表示中
夜の帳がゆっくりと降りていく頃、私は雑踏の中で薄明るい居酒屋の明かりに吸い寄せられた。
その夜、グラスの中で揺れる氷の音が、不思議と胸の奥まで響いていた。
二十六歳、まだ人生の輪郭がぼんやりとしていたあの春の晩、私は運命という名の小さな奇跡に出会ったのだった。

 彼女は私の隣に座った。
やや控えめに笑い、グラスを持つ手首の細さが妙に印象的だった。
大人びた横顔と、時折こぼれる無邪気な笑み。
その対比が、春の陽射しと木陰のように私の心を揺らした。

 「誕生日、同じ日なんです」
 彼女がそう言ったとき、私は一瞬、時が止まったような錯覚を覚えた。
くだらない偶然に過ぎないはずなのに、胸の奥で何かが深く、確かに動いた。
彼女の瞳の奥に、私と同じ孤独の影が光っていたような気がした。

 やがて季節はそっと移ろい、再び彼女と会う機会が訪れた。
春の終わり、まだ冷たい夜風が頬をなでるころだった。
人気の少ない路地裏の店で、彼女は静かに一つの事実を口にした。

 「私、バツイチなんです」

 その言葉に驚きはなかった。
むしろ、そのまっすぐな告白に、私は安堵すら覚えた。
隠し事のない真実が、心地よい重みとなって胸に落ちる。

 「それは、まったく問題じゃない」
 私はそう答え、言葉を選びながら、彼女に想いを伝えた。

 「あなたと、付き合いたい」

 彼女はわずかにまぶしそうに目を細め、そして小さく頷いた。



 三度目のデートは、梅雨の気配が街に漂い始めた頃だった。
窓の外では、まだ乾ききらないアスファルトがかすかに光っていた。
コーヒーカップを指でなぞりながら、彼女はふいに沈んだ声で言った。

 「……実は、子どもが一人いるの。
あなたと会う日、親に預かってもらってる」

 その告白のあとに流れる沈黙は、雨上がりの空気のように澄んでいた。
私は彼女のまなざしから目を逸らさず、静かに呼吸を整えた。
正直に打ち明けてくれたことが、何より嬉しかった。

 「ありがとう。
……その子とも、一緒に遊びたい」

 私の言葉は、彼女の硬くなった肩を少しだけ解きほぐしたらしい。
彼女はほっとしたような微笑みを浮かべた。



 それから、三人で会う日々が始まった。
小さな手が私の指をぎゅっと握りしめ、初夏の公園で笑い声が風に溶けていった。
彼女の子どもがアイスクリームを頬張る様子は、幼い日の自分自身を思い出させた。

 彼女への想いは、ゆっくりと、しかし確実に深まっていった。
子どもとも、ぎこちなさの向こう側に小さな信頼の芽が育ち始めていた。

 だが、時間が経つにつれ、心の奥底にかすかな影が差し始めた。
家族になるとは、どういうことなのか。
血のつながらない子を、私は本当に愛せるのか。
もし、いつか自分たちの間に新しい命が生まれたなら、その子と平等に接することができるのか。

 悩みは夜毎に胸を締めつけ、夢の中でさえ私を離さなかった。
自問自答の果て、私はある夜、静かに結論を出した。

 ――自分には、無理だ。



 別れを告げた日、空はまるで私たちの心を映すように曇り、湿った風が路地を駆け抜けていた。

 彼女は何も責めなかった。
ただ、静かに涙をこぼし、私の決断を受け入れてくれた。
最後の言葉は聞き取れなかった。
ただ、その背中が、すべてを語っていた。



 時が過ぎ、季節は巡った。
桜の花びらが舞い散る春の朝、私はふとあの夜のことを思い出すことがある。
もし、あの時もう少しだけ愛情を信じられたなら。
もし、もっと大人になってから出会えていたなら。

 後悔は、苦いコーヒーのように喉元を静かに通り過ぎていく。

 人生には、やり直しのきかない選択がある。
愛と赦しの重さを、あの時の自分はまだ知らなかっただけなのだ。
今も私は、春の光と影のあわいを歩いている。
あの日と同じ誕生日の彼女を、遠い記憶の中でそっと祝福しながら。
読了
スワイプして関連記事へ
0%
ホーム
更新順
ランダム
変換
音読
リスト
保存
続きを読む

コメント

まだコメントがありません。最初のコメントを投稿してみませんか?

記事要約(300文字)

ダミー1にテキストを変換しています...

0%
変換中