夜明け前の病院は、息をひそめた獣のように静まり返っていた。
廊下の蛍光灯だけが白々と天井を照らし、外では季節外れの冷たい雨がガラス窓を細かく叩いている。
私は真新しいシーツの上で、ただ呼吸を数え続けていた。
ゆっくり、深く。
イメージトレーニングで何度も反復した動作だったはずなのに、現実の痛みは、想像よりもはるかに重く、鋭かった。
病院の休日。
患者は、私ともう二人だけ。
静けさが、余計に孤独を際立たせる。
けれど、波のように寄せては返す陣痛のたび、私の内側から何かが剥がれ落ちていく。
冷えた空気の中で、私は叫ぶしかなかった。
「痛い!痛い!痛ーい!!」
自分の声が、天井に跳ね返り、薄暗い廊下にまで響いていく。
遠くから義父の声がした。
「病院の玄関まで聞こえてるぞ」
私は気にしなかった。
病院が休みなら、多少の迷惑も許されるはずだと、どこかで開き直っていた。
陣痛が頂点に近づくにつれ、私は自分が自分でなくなっていく感覚に襲われていた。
徹夜の疲労と、叫び続けた喉の痛みで、意識が薄れていく。
けれど、痛みだけは確かに、絶え間なくそこにあった。
私は唐突に、奇妙な高揚感に包まれる。
「イヤッホー!陣痛きたーアハァハハ八!!ゴッリッラッ!ゴッリッラッ!」
自分でも意味が分からない言葉が、口からあふれていく。
助産師さんが心配そうに近づいてくる。
私は手にしていた黄緑色のテニスボールを突き出した。
「こっ…これ、ガチャピンの先っちょ!指の先っちょ!」
助産師さんが一瞬だけ微笑んだ。
彼女の白衣が、鈍い蛍光灯の下できらりと光って見えた。
「助産師さん、キラキラしてますぅ!だから早く子宮口拡げてぇえぇぇ!」
私はせがむように叫ぶ。
彼女は慣れた手つきで私の背中をさすり、静かに励ましてくれる。
けれど、痛みはますます激しくなり、私は叫ぶしかなかった。
「無理無理!もう出る!出てるよぉ!」
時折、旦那の手が私の額をそっと拭う。
彼は静かに、けれど確かにそこにいてくれた。
私は涙まじりに訴える。
「愛してる!!愛してるから二人目はあなたが産んでえぇえぇぇ!」
彼は少し照れたように笑い、私の手を強く握り返してくれた。
そのぬくもりが、遠い岸辺の灯台の光のように頼もしかった。
やがて、嵐は過ぎ去った。
小さな命が、私の腕の中にそっと横たわる。
ほのかに湿った髪、かすかにミルクのような匂い。
世界が静寂に包まれる。
私はそっと目を閉じ、深く息を吸い込む。
涙が頬を伝い、心の奥底で何かが静かにほどけていく。
ああ、可愛い――この世に、こんなにも愛おしいものがあったのだと、私は初めて知ったのだった。
笑える話:叫びと祈りのあいだ――静謐な病院で迎えた出産の夜
叫びと祈りのあいだ――静謐な病院で迎えた出産の夜
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