怖い話:136号室からの呼び声――弟と私のあの夏の記憶

136号室からの呼び声――弟と私のあの夏の記憶

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夜の闇は、時として人の心に静かに忍び寄る。
あの出来事も、そんな夜の深い底から始まったのだった。

 私は弟と、古い実家の一室を分け合っていた。
狭い六畳間に二つの布団。
幼い頃から喧嘩ばかりしていたが、不思議と、互いを守ろうとする絆は消えなかった。
剥き出しの蛍光灯の下、私たちは時に兄弟というより、戦友のように暮らしていた。

 弟が二十歳を目前にしていた夏の夜。
外は雨上がりの匂いが漂い、どこか遠くで猫が鳴いていた。
私は早々に眠りに落ちていたが、玄関の鍵が回る音で目を覚ました。
弟が、大学の友人たちと飲み歩いて遅く帰ってきたのだろう。
私はまどろみの中で、弟の重たい足音とあいまいな独り言を聞き流し、再び夢の中に落ちようとした。

 ――ヴーン…ヴーン…。

 枕元で震える音が、私の意識を現に引き戻した。
ぼんやりとした視界の中、携帯電話が小刻みに震えている。
自分のではない。
弟の携帯だ。
だが、肝心の弟はふてぶてしい寝息を立てている。

「おい、電話鳴ってるぞ。
うるさいから出ろよ」

 私は苛立ち混じりに弟を揺り起こした。
弟は寝ぼけ眼で携帯を手に取る。
その画面には、見慣れぬ数字が光っていた。

「え? 一三六? 何これ……」

 彼の声に、私の眠気は完全に消えた。
深夜の見知らぬ番号――何やら不吉な予感が胸の奥にじわりと広がる。

「まあ、とりあえず出てみろよ」

 弟はしぶしぶ通話ボタンを押し、耳に当てる。
室内に沈黙が落ちる。

「はい……え? いや、俺に言われても……はい、少し待ってください」

 弟は慌てて枕元のメモ帳を探し、何かを書き留める。
私は息をひそめてその様子を見守った。

「……はい、わかりました」

 電話は静かに切れた。

「何だったんだ?」と私は尋ねた。

「亡くなった人の住所を教えるから、そこへ行ってくれって。
警察じゃないみたいだけど……とりあえずメモした」

 彼の言葉は、真夜中の部屋に異様な重さを残した。
私は答えに窮し、弟もまた、どこか現実味のない夢を見ているような表情をしていた。

 朝が来た。
東の空が白み始め、夜の帳がゆっくりと上がっていく。
私たちは昨夜の出来事を夢だったと片付けたかったが、机の上には現実の痕跡が残されていた――弟の乱れた字で書かれた、見知らぬ住所。
携帯を確認すると、不思議なことに、一三六からの着信履歴はどこにも残っていなかった。

 私はインターネットで「一三六」を調べる。
どうやら電話会社の履歴確認サービスだという。
しかし、そこから直接電話がかかってくることはないらしい。
ますます現実感が揺らいでいく。

 弟は、紙片に記された住所をじっと見つめていた。
やがて、意を決したように顔を上げた。

「そんな遠い場所じゃないし……友達と行ってみるわ」

 私は何も言えず、「おう」とだけ返した。



 夕暮れ。
茜色に染まる空が、一日の終わりを静かに告げていた。
そのとき、弟から電話が入った。

「兄ちゃん、ヤバいことになった。
今、警察にいる」

 緊張が私の全身を駆け抜ける。
両親はまだ帰宅していない。
私は急いで警察署へ向かった。
受付の奥には、弟と、見知らぬ青年が二人。
三人とも蒼白な顔をしていた。

 事情を聞く。
弟たちは、住所を頼りに郊外の廃墟を訪れたという。
打ち捨てられた家屋の中、埃舞う薄暗がりで、彼らは偶然にも人骨を発見してしまった。
警察へ通報し、そのまま事情聴取となったのだ。

「心霊スポット巡りしてて、偶然見つけたってことにしといた」

 弟は震える声で言った。
警察官の顔は厳しいが、どこか哀れみの色も浮かべている。
遺体は女性で、死後かなりの年月が経っているとのこと。
私たちは身元確認も叶わず、ただ家へと帰された。



 その日を境に、弟に変化が現れた。

「今、テレビに変なの映らなかった?」

 弟がそう言い出したのは、ある晩のことだ。
私は録画を巻き戻して確かめたが、何も映っていない。
だが弟は頑として「女の人の影が見える」と訴える。
最初は冗談かと笑い飛ばしたが、やがて弟は日常のどこにでも「女の影」を見出すようになった。

 両親に相談しても、相手にはされなかった。
弟は次第に外出を拒み、風呂や洗面所ですら怯えるようになる。
私は胸が裂ける思いだった。
あの廃墟にあった遺体の霊が、弟に取り憑いているのではないか――そんな確信が、私の心に重く沈んだ。

 私は神社でお祓いを受け、お守りを弟の持ち物に忍ばせた。
友人にも相談し、あらゆる方法を試したが、弟の様子は悪化するばかりだった。

 やがて、両親も事態の深刻さを認め、知り合いを頼って除霊を依頼することになった。



 除霊の日。
三人の霊能力者が家にやってきた。
彼女たちは低くお経を唱え、長い時間、部屋の中に漂う重苦しい空気を払おうとした。

 終わったあと、霊能者の一人が言った。

「除霊は終えましたが、失敗です。
霊が強い念を訴えていますが、何を求めているのか分かりません。
声が届かないのです。
要望さえ分かれば、成仏させることができるのですが……」

 希望は静かに崩れ、私は絶望の淵に立たされた。
弟はこのまま壊れてしまうのか――胸の奥に、冷たく重い石が沈んでいくのを感じた。

 それでも、私はあきらめなかった。
私は警察署へ出向き、廃墟で発見された遺体について尋ねた。
担当者は最初こそ渋ったが、私の必死な様子に根負けしたのか、ぽつりぽつりと語り始めた。

「若い女性の遺体です。
死因は首吊りによる窒息死。
廃墟の関係者も皆亡くなっており、身元も分かりません」

 何も解決しないまま、私は最後の手段に出ることにした。
あの廃墟――すべてが始まった場所へ。



 夏の午後、私は町外れの廃墟へと向かった。
蝉の声だけが遠くから響く。
道端の花屋で線香と花を買い、薄暗い家屋の前へ立った。
木々の隙間から漏れる陽射しさえ、どこか冷たげに思えた。

 私は現場に線香を手向け、花を置いた。
そして、ひたすらに祈った。

「頼む、もう弟を許してくれ。
成仏してくれ」

 風もないのに、どこからか柔らかな声が聞こえた。

「……ありがとう」

 女の声だった。

 その瞬間、全身の血が凍りついた。
声にならない叫びを胸に、私は全速力で廃墟を後にした。



 奇跡は、確かに起きた。
弟の顔色はみるみるうちに戻り、「女の影」は二度と現れなかった。
今では、あの出来事などなかったかのように、弟はうるさいほど元気である。

 あの遺体は、ただ誰かに気づいてほしかっただけなのかもしれない。
孤独の果てに命を断ち、発見されることもなく、苦しみ続けていた。
その助けを、偶然にも弟が受け取ったのだろう。

 弟に尋ねても、心当たりはないという。
ただ、「ゼミの研究であの地域に行ったことがある」と、ぽつりと呟いた。

 今でも夜中、あの「ありがとう」の声を思い出すことがある。
あれは幻聴だったのか、現実だったのか。
答えは闇の中にある。
だが、確かにあの夏、私たちは、誰にも語られぬ物語に触れてしまったのだ。
読了
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