朝、まだ夜の名残が空にわずかに漂う頃、私は古びたリュックを背負い、潮の香りに包まれた堤防沿いの小道を歩いていた。
道端の草は露に濡れ、冷たい風が肌を刺す。
今日こそは大物を釣り上げたいという期待と、どこか胸の奥底をくすぐる不安が交錯していた。
目指すのは、地元の釣り人たちの間でひそかに語り継がれる岩場――誰もがその名を口にするのをためらう、まるで海に飲み込まれそうな場所だった。
その岩場は、岸から続く小道を外れ、しばらく獣道のような急斜面を下った先に姿を現す。
樹々の間から漏れる朝陽が、黒々とした岩肌を鈍く照らしている。
近づくにつれて、潮と岩が混じり合った、どこか鉄錆びたような匂いが鼻をついた。
空にはまだ薄い雲が広がり、風は海面を撫でて微かな波紋を作っている。
聞こえてくるのは波が岩にぶつかる重低音と、遠くで鳴くカモメの声、そして自分の靴が砂利を踏む音だけ。
人の気配は皆無で、まるで世界から切り離されたような孤独感があった。
この岩場は、崖のようにそそり立ち、足元からは海面までほぼ垂直に切り立った岩壁が続いている。
岩肌は黒ずみ、ところどころ苔むしていて、触れるとひんやりと冷たい。
崖際に近づくと、遥か下の海面がゆらゆらと揺れているのが見えた。
水深は底知れず、覗き込むと吸い込まれそうな恐ろしさを感じる。
幼い頃、祖父に「この辺りの海は、昔から人を呑み込む」と言われたことが脳裏をよぎる。
釣り竿を組み、仕掛けを整える。
手元の金属が朝露で滑りやすくなっていることに気づき、慎重に指先で確かめる。
潮風が吹き抜けるたび、頬に冷たさと塩気を感じる。
私は呼吸を整え、静かに針を海へと投げ込んだ。
午前中、何度も仕掛けを変えたり、餌を変えたりしたが、竿先に伝わるのはただ海流の重みだけだった。
時折、遠くで波が岩に砕け、しぶきが霧のように舞い上がる。
その度に小さな水滴が手の甲を冷やす。
空は次第に明るくなり、だが釣果は一向に上がらない。
心の中に焦りが芽生え始める。
釣り人の勘、今日はついていないかもしれない――そんな考えが頭をよぎる。
昼を過ぎ、潮の流れが変わった。
私は持参した水筒の水を飲み込むが、緊張のせいか喉が渇くばかりだった。
時間の経過とともに、空気が少し湿り、海の匂いがいっそう強まる。
辺りは静まり返り、時折自分の心臓の鼓動が耳の奥に響くような錯覚すら覚える。
午後も釣果は芳しくなく、私は徐々に帰るタイミングを計り始めていた。
しかし、陽が傾き始めたその時、ふと海面の色が変わった。
崖の陰が長く伸び、海は青黒く沈んでいる。
その闇の中、突然、水面下に大きな黒い影が現れた。
最初は雲が反射しているだけと思った。
しかし、影はゆっくりと動き、やがて複数の細長いシルエットが水中で蠢き始めた。
イカの群れか――私は直感的にそう思い、興奮と戸惑いを抱えながら、釣り糸をその方角へと投げた。
冷えた手がわずかに震える。
着水の音が静寂を破り、竿先が一瞬沈み込む。
息を詰めた瞬間、強烈な引きが伝わってきた。
リールを巻く手に、今まで感じたことのない抵抗がずしりと伝わる。
これはただのイカではない――そんな予感が背筋を駆け抜ける。
私は腕に力を込め、慎重にリールを巻き続ける。
しかし、相手は不規則な動きで、時に急激に力を加え、時にふいに緩める。
そのたびに筋肉が強張り、息が浅くなる。
冷や汗が額を伝い、鼓動が速くなっていく。
やがて体力が奪われ始め、私は竿を岩の隙間に固定し、しばし様子を見ることにした。
額から滴る汗が塩辛く、指先の感覚が少しずつ鈍くなっていく。
私はもう一度、海面の方を覗き込んだ。
夕暮れの光が水面に斑模様を作り、さきほどまで黒い影だったものが、次第に輪郭を持ち始める。
水中で何かが蠢いている。
目を凝らすと、それはイカではなかった。
無数の白いものが、釣り糸にしがみついている――それが人間の手だと気づいた瞬間、私は全身の血が凍るのを感じた。
その手は、男も女も、老いも若きも、指先を必死に絡めて釣り糸を握りしめていた。
肌は青白く、爪はところどころ欠け、岩に擦れたように血が滲んでいる。
腕は水中から伸び、まるで地獄の底から這い上がろうとする者たちのようだった。
水面の下から、苦悶に歪んだ顔がこちらを見上げている。
目は虚ろで、しかし強い執念が感じられた。
私は動けずに絶句した。
呼吸は浅く、胸が圧迫される。
全身の毛穴が粟立ち、背中に冷たい汗が流れる。
目が合った――全身で糸にしがみつく一人の男と、はっきりと目が合った。
男の顔は苦しみに歪み、口元は何か叫んでいるように動いているが、声は一切聞こえない。
沈黙の中で、男の怒りと悔しさ、そして何かを訴えるような絶望が、無言のまま私に突き刺さる。
その瞬間、バキッ――と岩に固定した竿がきしむ音が響き、私は現実に引き戻された。
次の瞬間、竿が岩から外れ、私の目の前を通り過ぎて海に落ちていくのがスローモーションのように見えた。
竿は一瞬、水面で跳ね、そして深い闇に飲み込まれて消えた。
手を伸ばすこともできず、私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
その時、私は直感した。
あの無数の手は、「上がって来よう」としていたのではない。
私を、この深い海の闇へと引きずり込もうとしていたのだ。
自分の脚が震え、息が詰まり、心臓が激しく脈打つ。
岩場の空気が一気に重くなり、潮の匂いはどこか腐臭を帯びていた。
私は慌てて道具をまとめ、崖の上へと駆け上がった。
足元の岩が滑り、何度か転びそうになる。
心の奥底で、何かが「二度と戻ってくるな」と囁いている気がした。
後日、地元の古い酒場でこの体験を誰かに語る勇気はなかった。
しかし、ふと耳にした話によれば、あの崖はかつて多くの人が命を絶った場所であり、今も夜な夜な不思議な出来事が絶えないのだという。
その話を聞いた時、背筋を冷たい何かが這い上がるのを感じた。
あの日の、あの手の感触、男の瞳に宿った絶望と怒り――すべてが鮮明に蘇り、私は二度と、あの岩場に足を踏み入れることはなかった。
今も時折、あの夕暮れの海、崖下の深い闇、そして水中に蠢く無数の手と目が、夢の中で私を呼び寄せることがある。
その度に、あの場所に残された何かが、今も私を待っているような、そんな気がしてならない。
怖い話:崖下の深海で蠢くもの――五感と心理を貫く、岩場釣行の悪夢
崖下の深海で蠢くもの――五感と心理を貫く、岩場釣行の悪夢
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