怖い話:崖の記憶、海の底より手が伸びる夜

崖の記憶、海の底より手が伸びる夜

📚 小説 に変換して表示中
午後の陽射しは、夏の終わりを告げるように、岩場の影を長く伸ばしていた。
潮の香りが鼻孔を満たし、遠くでカモメが一声鋭く鳴く。
その日もまた、私は釣竿を携え、地元の者しか知らぬという「穴場」へと足を運んでいた。

 磯釣りは、私にとって唯一の逃避だった。
都会の喧騒から離れ、荒々しい岩肌と、どこまでも続く青い海とだけ向き合う時間。
崖の上から見下ろせば、海面は思いのほか深い青を湛え、切り立った岩はほとんど垂直に海へと落ち込んでいる。
その冷たい岩肌に手を触れるたび、現実から少しずつ遠ざかっていく自分を感じるのだった。

 平日の昼下がり。
岩場には私以外の気配はなかった。
波が時折、岩を叩く音が静寂をかすかに破る。
午前中は釣果もなく、午後も成果は芳しくない。
私は竿の感触を何度も確かめながら、諦めにも似た静けさの中に身を沈めていた。

 陽が西へ傾き、茜色の光が海面に筋を引きはじめた頃だった。
ふいに、海面下に黒い大きな影が漂うのを見た。
最初は、雲の影だろうかとぼんやり思った。
だが、よく目を凝らすと、それは無数のイカの群れのように見える。
こんな場所で――と、私は小さく息を呑んだ。

 半信半疑で、仕掛けを群れの方向へと投げ入れる。
糸が水を切り、静かに沈んでいく。
次の瞬間、手元に強い衝撃が走った。
驚く間もなく、竿は海へと引きずり込まれそうになる。
私は必死でリールを巻き戻す。
その力は、まるで私自身が海底へと引きずり込まれるかのようだった。

 「大物か……?」
 心のどこかで、そんな期待と不安が入り混じる。
だが、引きは明らかに異様だった。
不規則で、どこか人間的な執念すら感じさせる重さ。
私は焦り、竿を岩の隙間に強く固定する。
呼吸は荒くなり、額に冷たい汗が滲む。

 ふと、様子を見ようと海面を覗き込んだ。

 その瞬間、私は自分の目を疑った。

 群れだと思っていた黒い影は、無数の人の手だった。
白くぬめる腕が、糸にしがみつき、必死に岩へと伸びている。
水の中から、形容しがたい恐怖と絶望の色をまとった顔が、次々と浮かび上がる。
苦悩と怒りと、底知れぬ哀しみが、その瞳に渦巻いていた。

 私は動けなかった。

 心臓が冷たい手で握りつぶされるような感覚。

 声も出せず、ただ絶句したまま、海の底から這い上がる怨霊の群れを見下ろしていた。

 そのとき、竿を固定していた岩の隙間から、バキッという乾いた音が響いた。

 竿は、私の手の中から、まるで意志を持ったかのように海へと消えた。

 水面下で、あの無数の手が、私を――海へと引きずり込もうと、糸を握り締めていたのだ。

 私は我に返り、道具を乱雑にまとめると、駆け出すようにその場を離れた。

 呼吸は浅く、鼓動は乱れ、膝は震えていた。
崖の上から見下ろす海の色は、先ほどまでの静けさとは違い、底知れぬ闇を湛えているように思えた。

 後日、私は地元の古老から、あの崖が「自殺の名所」として知られていることを聞いた。

 なぜ、あの時あの手たちは、私に向かって伸びてきたのか。

 答えは、今も波の彼方に消えたままだ。

 それ以来、私は二度とあの岩場に足を踏み入れることはなかった。

 夕暮れの海が静かに闇へと沈むたび、あの無数の手が、いまだ私の記憶の底から、そっと伸びてくるのだ。
読了
スワイプして関連記事へ
0%
ホーム
更新順
ランダム
変換
音読
リスト
保存
続きを読む

コメント

まだコメントがありません。最初のコメントを投稿してみませんか?

記事要約(300文字)

ダミー1にテキストを変換しています...

0%
変換中