春の終わり、雨の名残がガラス張りの天井を静かに濡らしていた。
中学二年の僕は、母の傍からふいと離れ、煌々と明るいデパートの通路をひとり歩いていた。
エスカレーターの金属音、香水売り場から漂う甘い香り、人々のざわめき。
そのすべてがぼんやりと溶け合い、目の前の景色を遠い夢のように霞ませていた。
迷子になった、と気づいたのは、もう何分も経ってからだった。
心細さが胸の奥で小さく疼く。
どうして母の手を離してしまったのだろう。
けれど、そんな自分を叱る気持ちも、どこか他人事のように思えていた。
深い青のカーペットを踏みしめ、僕はトイレの近くまでやって来た。
そのときだった。
背後から控えめな声が降ってきた。
「君、ちょっといいかな。
雑誌の取材をしていて……少し時間、もらえるかな?」
振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
二十代半ばだろうか。
きちんとした身なりに、どこか影を帯びた目。
僕は一瞬ためらったが、「取材」という響きに、なぜか心が跳ねた。
謝礼がもらえる――そんな都合の良い期待が頭をよぎる。
母は探しているかもしれない。
それでも、僕の足は男の誘いに従い、歩き出していた。
「少年の性についての取材なんだ。
人前では話しづらいから、トイレの個室でどうかな」
声は穏やかで、疑いの余地もないように響いた。
僕は、何も考えずに頷いてしまった。
個室のドアが閉まり、世界が狭く、静かになる。
薄暗い照明が、タイルの壁に影を落とす。
「友達とどんな話をする?」男は問いかける。
その声は、壁に吸い込まれて、やがてねっとりと絡みついてくる。
僕は、ただ受け答えを繰り返していた。
無意識のうちに、男の指が僕の身体に触れる。
冷たい感触が、現実の重みを伝えてきた。
心臓が、異常な速さで鼓動する。
「勃ったら負けだ」と、どこか滑稽な、しかし切実な決意が心を支配する。
「こうされても、何も感じない?」男の声が、耳元で囁く。
僕は、強がるように言った。
「こういうの、慣れてるんで」
自分でも意味のわからない言葉だった。
中学生の僕が、慣れているはずもない。
口にした瞬間、後悔がじわりと染みていく。
何かが、音もなく崩れていくようだった。
やがて、男は興味を失ったのか、ふいに「もう終わり」とだけ言い残し、さっさと個室を出ていった。
謝礼もなく、ただ虚しさだけがその場に置き去りになる。
図書券がもらえると信じていた自分の幼さが、ひどく滑稽に思えた。
しばらく動けなかった。
個室の狭い空間で、僕は自分の手のひらをじっと見つめていた。
扉の向こうでは、相変わらず人々の笑い声や足音が響いている。
だが、そのすべてが遥か遠く、別の世界の出来事のように感じられた。
あれは本当に取材だったのだろうか――。
今になっても、答えは出ない。
ただ、ほんのりとした恐怖が、心の奥底でずっと消えずに残っている。
春の終わりの雨の匂いとともに、あの日の記憶もまた、静かに胸の内に降り積もっていくのだった。
怖い話:薄明のデパートにて、少年は何を失ったのか
薄明のデパートにて、少年は何を失ったのか
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