新婚教師夫妻と幼き日の冬、こたつの中で遭遇した謎めいた恐怖の記憶

私の記憶の奥底に、今もなお鮮やかに焼き付いている出来事がある。
それは、私が小学校の2年生か3年生、まだ身体も心も幼かった、ある冬の日のことだ。
あの頃、私たち家族は古びた木造のアパートでささやかな生活を送っていた。
畳敷きの部屋には、石油ストーブの匂いが冬ごとに染みつき、どこか湿った壁紙と、時折軋む床板の音が、日常の一部になっていた。
窓の外には灰色の空が広がり、夕暮れになると街灯がぼんやりと黄色い輪郭を描き出す。
そのアパートの一角、私の家の隣に、新婚の夫婦が越してきたのは、ちょうど春の終わり、梅雨の気配が忍び寄る頃だった。

彼らは共に小学校の教師で、夫は眼鏡をかけていて、少し猫背気味。
いつも静かな声で話し、温厚そうな微笑みを絶やさなかった。
妻は長い髪を後ろで束ね、明るい声と柔らかな手つきで、私たち子供にもよく話しかけてくれた。
二人が引っ越してきた日、玄関先から漂ってきた新しい畳と洗剤の匂いは、どこか非日常を感じさせ、幼い私の胸を高鳴らせた。
やがて、二人は私や母とすぐに打ち解け、私は彼らの部屋に招かれては、お菓子をもらったり、たわいもない話をしたり、時に学校での出来事を話して聞かせたりした。

その日も、薄曇りの午後だった。
外からは近くの公園で遊ぶ子供たちの声が、時折風に乗って聞こえてきた。
私はちょっとした好奇心と、彼らの家のあたたかさに惹かれ、玄関の引き戸をそっと開けた。
中に入ると、こたつの上には湯気の立つ急須と湯呑み、蜜柑が三つ、籠に入っていた。
窓から差し込む淡い光が、こたつ布団に柔らかな影を落としていた。
部屋の空気はほんのり甘いお香の匂いと、新しい家具の木の香りが混じり合い、吸い込むたびに胸が落ち着いた。

「いらっしゃい」と奥さんが優しく迎えてくれる。
夫も微笑みながら、私に座るよう促した。
私はこたつに足を入れ、じんわりと広がる熱に、思わず頬が緩んだ。
しばらくは二人の会話を聞いたり、蜜柑の皮をむいたりしていたが、こたつの温もりと心地よい沈黙に包まれているうちに、いつしかまぶたが重くなっていった。
外の遠くで犬が吠える声が聞こえたのを最後に、私は深い眠りに落ちてしまった。

どれくらい眠っていたのだろう。
ふと、「早く、早く」という、切羽詰まったような声が耳の奥を突き抜けた。
空気が急に冷たく重く感じ、私は反射的に目を開けた。
視界がぼやけ、最初は何が起こっているのか分からなかった。
だが、すぐに自分の手首と足首に、細いロープのようなものが巻き付けられているのに気づいた。
夫婦の二人が、私の両側にかがみ込み、懸命な手つきで私を縛ろうとしている。
夫の手は震えていたが、目はどこか真剣で、奥さんは口元に笑みを浮かべながら、鋭い視線を私に向けていた。

一瞬、全身が冷たい汗に覆われた。
こたつの中の温もりが、急速に遠ざかっていく。
私は叫び声をあげることも忘れ、ただ必死に身体をねじらせて暴れた。
心臓が耳元で激しく鳴り、喉はカラカラに乾いていた。
夫の「大丈夫だよ」という低い声が、どこか遠くから響いてくる。
だが、私はその言葉に一切の安心を感じなかった。
怖さと混乱が入り混じり、頭の中は真っ白だった。

「顔が赤くなってきたわ」と奥さんが笑いながら言った。
その声は、普段の柔らかさとは異質な、どこか冷ややかな響きを帯びていた。
私はようやく声を絞り出し、「やめて！」と叫ぶと、力の限り手足を振りほどき、こたつ布団を跳ね上げて逃げ出した。
裸足の足裏に畳の冷たさが突き刺さり、玄関までの数歩が永遠のように長く感じられた。
扉を開け、外の空気を吸い込むと、胸の奥がひりひりと痛んだ。

家に駆け込んだ後も、しばらくは手足の震えが止まらなかった。
母の問いかけにも上手く言葉を返せず、ただ自分の心臓の音だけが頭の中で反響していた。
あの時、もし私があのまま縛られていたら、どうなっていたのだろうか。
二人の笑顔の裏に潜んでいたものは、何だったのだろう。
今となっては、あの新婚教師たちが私に何をしようとしていたのか、確かめるすべもない。
ただ、あの日のこたつの温もりと、あの部屋に漂っていた静かな不穏さだけが、今も私の記憶の闇に残響し続けている。