私の記憶の底には、ひんやりとした埃の匂いと、遠い春の淡い光がいまも沈んでいる。
あれは、小学校二年か三年の、まだ世界がきらきらと謎めいていた頃のことだ。
父と母と、私たちは町外れの古いアパートに暮らしていた。
東向きの小さな窓からは、朝になると柔らかな陽射しが差し込み、まだら模様の明るさが畳の上に浮かんでいた。
隣室には、新婚の夫婦が越してきたばかりだった。
二人とも小学校の教師だと母が言っていた。
玄関先で出会うと、彼らは春の風のような微笑みを残して、いつも挨拶してくれた。
最初は遠慮がちだったが、やがて私はその部屋にも足を運ぶようになった。
新婚夫婦の部屋は、私の家よりも少しだけ広く、どこかよそよそしく、けれども心地よい温もりがあった。
いつも決まって、入り口近くのこたつに案内された。
こたつ布団の隙間から、温かな空気がほわりと頬を撫でていく。
そこに座っていると、自分だけが大切なお客さんになったみたいで、不思議な誇らしさを覚えた。
ある午後、薄曇りの空の下、私はいつものように隣の部屋を訪れた。
扉の向こうからは、紅茶の甘い香りが漂っていた。
夫婦は穏やかな笑顔で迎えてくれて、私はこたつにもぐり込む。
どちらからともなく話が始まり、やがて言葉がゆるやかに途切れると、私はじきにまぶたが重くなっていくのを感じた。
こたつの温もりが全身を包み、遠くから電車の警笛が、かすかに響いてきた。
それは春の獣の遠吠えのようで、私はその音に耳を澄ませながら、知らぬ間に深い夢の底へ落ちていった。
――「早く、早く」
何かが私の意識を強く引き戻した。
耳元で、ふたつの声が重なり合っていた。
目を開けると、こたつの上の空気が、たゆたう春霞のように揺れている。
私は、体に異物感を覚えた。
両手首には細いロープのようなものが巻きつけられていた。
新妻が、柔らかな手つきでそれを締めながら、夫のほうへ目配せをする。
夫は、何か確かめるように私をじっと見つめていた。
私は、最初は何が起きているのかわからなかった。
だが、ロープが肌に食い込む感触が現実の重みを伝えてきた。
心の奥で、冷たい不安がじわじわと広がる。
私は反射的に身を捩った。
「顔が赤くなってきたわ」
新妻が、まるで何か愉快なことでもあったかのように微笑んだ。
その笑顔は、春の陽射しのように明るいはずなのに、私にはどこか遠い場所のものに思えた。
私は必死になって暴れ、ロープがほどけると同時に、こたつ布団を蹴り上げて玄関へ駆け出した。
後ろでふたりの声が重なり、何か叫んでいたが、私はもう耳を塞いでいた。
家へと続く廊下を裸足で走り抜けると、冷たい床の感触がはっきりと足裏に伝わってきた。
あの瞬間の鼓動の速さと、喉の奥の苦い味は、今も鮮烈に思い出すことができる。
それ以来、私は二度とあの部屋を訪れなかった。
薄明かりの中、こたつの向こうで笑う新婚の教師たちの顔は、今も私の記憶の片隅で、春の影のように揺れている。
もし、あのまま縛られていたら――。
あのふたりは、いったい何をしようとしていたのだろう。
答えは、いまも春靄の彼方に、ぼんやりと沈んだままだ。
怖い話:こたつの向こうに揺れる春の影
こたつの向こうに揺れる春の影
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