私の学生時代、冬の空気が一層冷たく感じられる年末年始のことだった。
街路樹の枝は硬く凍り、吐く息が白く空中に浮かぶ朝、私は決して明るいとは言えない郊外の精肉工場に向かっていた。
工場の建物は薄い灰色のコンクリート壁に囲まれ、冬の曇天の下で、どこか冷ややかな存在感を放っていた。
屋根から垂れた霜柱が、まるで鋭利な牙のように見えたのを今でも覚えている。
工場の門をくぐると、すぐに鼻腔を刺激する独特の生肉の匂い。
冷蔵室から漏れ出す冷気が肌にまとわりつき、作業着の下に何枚重ね着しても、防ぎきれない寒さだった。
金属の床はわずかにぬめり、歩くたびにゴム長靴がきゅっ、きゅっと音を立てる。
機械の唸り、作業員同士の短い掛け声、肉を切るたびに響く鈍い音――さまざまな音が混ざり合い、工場の内部は独特の生々しさに満ちていた。
ここは、主にコンビニの肉まん用のひき肉を大量に生産している場所だった。
年末年始の需要に応じるため、普段は静かなこの工場も、冬休みには学生バイトで溢れかえる。
私はバイクを買うという私的な目標のため、できる限り多くのシフトを入れ、朝から晩まで肉と向き合う日々を送っていた。
機械のリズムに合わせて、ひたすら肉を捌き、詰め、運ぶ。
流れ作業の単調さは、徐々に心を無にしていくような感覚をもたらした。
バイト仲間もそれぞれの持ち場に散らばっていたが、その中に一人、明らかに周囲と距離を置く存在があった。
彼の名札には「内田」と書かれていた。
たぶん他校から来たのだろう。
彼はどこか影の薄い、いかにも「いじめられっ子」の雰囲気をまとっていた。
小柄で猫背、目はいつも伏せがちで、会話はほとんどしない。
朝礼の輪にも混ざらず、始業前の雑談の輪からも遠ざかり、作業になれば無言で黙々と自分の仕事をこなすだけ。
終業のチャイムが鳴れば、誰よりも早くロッカー室へ消えていった。
そんな彼の存在は、自然とバイト仲間たちの間で噂の種になった。
「内田って、暗いよな」「真面目にやってるけど、仕事遅いし」「あいつ、いつかトラブル起こすんじゃない?」と、誰ともなく囁かれていた。
私自身は、内田に直接関わる機会もなかったが、彼の背中がどこか寂しげで、触れてはいけない何かを感じさせていたのは確かだ。
休憩室で彼を見るたび、なぜか空気が少し重く沈む気がした。
そんなある日、工場の朝はいつもと変わらず始まった。
だが、昼前、内田の姿が忽然と消えた。
誰も彼の姿を見ていない。
作業現場からも、ロッカー室からも、彼の気配は跡形もなかった。
ざわつくバイト仲間たちの間に、妙な緊張感が走る。
何か良くないことが起きている――そんな予感が、工場内の空気をさらに冷たくした。
不意に、社員から全バイトに集合の指示が出された。
重厚な鉄扉の会議室に集められた私たちを、社員の一人がいつになく深刻な顔で見渡した。
会議室の蛍光灯は妙に白く、全員の顔を青白く照らしていた。
外の冷気が隙間から入り込み、寒さが骨まで染みる。
私の手は冷たく汗ばんでいた。
「本来、こういうことはアルバイトの皆さんに話すべきことではないのですが……」と、社員の声は低く、重苦しい沈黙を切り裂いた。
彼は一度言葉を切り、喉を鳴らした後、続けた。
「取引先から、苦情が来てしまいました」
誰かがごくりと唾を飲み込む音がした。
空気が一気に張り詰め、私の心臓はどくどくと早鐘を打つ。
社員は一瞬視線を落とし、そして、信じがたい事実を告げた。
「どうやら、我々が出荷したひき肉の中に……猫の死骸が混入していたそうです」
一瞬、世界が止まったかのように感じた。
私の脳裏に、すぐさま内田の顔が浮かぶ。
あいつだ――あいつが、何かやったんじゃないか。
そんな考えが、理屈を超えて体中を駆け巡った。
視界の端で、他のバイトたちも顔を見合わせ、凍りついたような表情をしている。
「そんなことがあるはずはないと思い、昨晩機械を調べたのですが……」社員の声はさらに沈み込む。
「確かに、ありました。
動物の体毛や、本来混入するはずのない肉片が」
その瞬間、工場全体の空気がさらに重く、粘り気を帯びたように感じた。
私は自分の呼吸が浅くなっていくのを自覚しながら、必死に平静を装った。
自分が何も関与していないことは分かっている。
それでも、誰かが自分を疑っているのではないか、そんな恐怖が背筋を這い上がってきた。
社員の視線が、まるで嘘発見器のように一人ひとりをなめるように見て回る。
私は目を逸らさず、表情を固く保った。
「あなた達が関わっていないのは分かっています。
この件は、社員に任せてください」
その言葉と共に、場の緊張が少し緩んだ。
周囲のバイトたちも、ほっとしたように肩を落とすのが分かる。
誰かが小さく息を吐く音が、静寂の中に響いた。
その後、「誰かに何か聞かれても、分からないとだけ答えてください」と社員が念を押し、会議は静かに解散となった。
事件の詳細を問う者も、騒ぎ立てる者もいなかった。
工場の空気は、ますます重く沈み込んでいった。
内田はその日を境に、二度と工場に姿を現さなかった。
彼のロッカーは、翌日以降も誰も開けようとしなかった。
バイト仲間も、事件について語ることを避けていた。
冬休みが終わり、給料を手にした私は、ようやくこの不穏な日々から解放された。
しかし、後になって思い返すと、胸の奥に冷たい恐怖が残っていた。
あの「訳アリの肉」はどうなったのか。
内田はどこへ消えたのか。
数年後、当時のバイト仲間と再会しても、誰一人としてその後の真相を知る者はいなかった。
語られなかった謎と、工場の鉄の匂い。
それらは今も、私の記憶の奥に、鋭く冷たい棘のように残り続けている。
仕事・学校の話:冬の精肉工場で起きた不可解な事件――五感に刻まれた恐怖と謎の余韻
冬の精肉工場で起きた不可解な事件――五感に刻まれた恐怖と謎の余韻
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