仕事・学校の話:冬の工場に沈む影――或る少年と消えた肉体の記憶

冬の工場に沈む影――或る少年と消えた肉体の記憶

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冬の朝は、どこか現実から切り取られたように静謐だった。
アスファルトに染み込んだ夜の冷気が、まだ消え残っている。
その朝靄の向こうに、精肉工場の煙突がまるで息をつくように白い蒸気を吐き出していた。

 あの年の冬休み、僕はバイクを買うため、できるだけ多くシフトに入ることを決意していた。
工場の内部は、外の寒さと無縁のように機械の唸りと肉の匂いで満たされていた。
鉄製の床を踏むたび、靴底から伝わる冷たさと、わずかな粘り気が現実味を帯びて迫ってくる。

 コンビニに並ぶ肉まん。
その中身になる大量のひき肉がここで生まれる。
僕たち学生アルバイトは、連休の間だけ、この終わりのない流れ作業の一部となるのだった。
作業台の上で、肉片は淡々と形を変え、誰にも感情を持たぬままベルトコンベアの上を流れていく。

 同じように無表情で働く者たちの中に、一人だけ、異質な影があった。
彼の名札には「内田」と記されていた。
どこか所在なげにうつむきがちなその姿は、まるで周囲の空気にさえ溶け込めないか細い影のようだった。

 内田は、他の誰とも話さず、ただ黙々と作業をこなしていた。
休憩時間にも一人隅に座り、何かを見つめているのか、それとも見ていないのか、分からなかった。
彼の背中からは、打ち捨てられた椅子のような哀愁が漂っていた。

 「アイツ、暗いよな」「真面目なくせに、全然使えねえんだって」
 時折、同じアルバイトたちがひそひそと噂し合う声が流れてきた。
彼の存在は、工場の空気の中で静かに異物として沈殿していた。
僕は曖昧に微笑み、会話には加わらなかった。
彼と目を合わせたことも、ほとんどなかったと思う。

 しかし、何かが起きる予感は、冬の空気のようにじっとりと胸の奥にこびりついていた。



 その日も、工場はいつものように機械音と血の匂いに満たされていた。
昼下がり、突然、内田が姿を消した。
彼の作業台には、まるで彼の存在そのものが霞のように消えた痕跡だけが残っていた。

 しばらくして、社員が全員を集めた。
彼の顔はいつになく厳しく、声も低かった。

 「本来、アルバイトの皆さんに話すべきことじゃないのですが……取引先から、苦情が来てしまいました」

 工場の空気が、一瞬だけ凍りついた。
何事か、と誰もが息を呑んだ。

 「どうやら、我々が出荷した挽肉の中に、猫の死骸が混入していたそうです」

 その言葉は、工場の騒音を一瞬で遠ざけるほどの衝撃を持っていた。
僕の脳裏に、あの内田の面差しが浮かび上がる。
冷たく、沈んだ瞳。
重い沈黙。
彼の影が、工場の隅に今も残っているかのようだった。

 ――まさか、アイツが。

 「そんなことがあるはずはないと思って、昨晩機械を調べたんですが、確かに……動物の体毛や、混入してはいけない肉が見つかりました」

 社員の視線が僕たち一人一人をじっと見つめる。
僕は、平静を装いながらも、心臓の鼓動が不規則に跳ねるのを感じていた。
関与はしていない。
けれど、どこかで自分もこの出来事の一部であるような、奇妙な居心地の悪さがあった。

 「あなた達が関わっていないことは分かっています。
この件は、社員に任せてください」
 そう言って、彼は少しだけ表情を和らげた。
緊張が解け、皆が安堵の息をついた。

 「誰かに何か聞かれても、『分かりません』とだけ答えてください」

 それだけだった。
その後、大きな騒ぎになることもなく、僕たちはまた淡々と作業に戻った。
誰もが、この出来事について語ろうとはしなかった。
冬休みは静かに終わった。
給料が振り込まれ、僕はバイクを手に入れた。

 だが、今も時折、あの工場の鉄の冷たさと、血の匂いが記憶の底から立ち上がってくる。
内田は、あの後どうなったのか。
猫の混入した肉は、どこへ消えたのか。
誰も知らない。
あの日々を共に過ごした仲間たちでさえ、誰一人、真実を語ろうとしなかった。

 冬の朝靄の中に沈む工場の姿が、時折、夢の中に現れる。
全ては霧の奥に消えていった。
ただ、あの少年の影だけが、今も僕の記憶の片隅に、薄く、しかし確かな重みをもって残っている。
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