朝靄が、窓の外の街並みを薄絹のように包み込んでいた。
私はその窓辺にひとり腰かけ、母が磨いたばかりのスプーンを手のひらで転がす。
銀色の表面に、ぼんやりと自分の顔が映る。
その曇りがちな瞳の奥には、これから始まる物語の予感と、終わりゆく日々への名残惜しさが、静かに揺れていた。
私は、不妊治療の末にようやく生まれてきた子供だった、と母は折にふれて語ってくれた。
けれど、その事実が私の幼少期に影を落とすことはなかった。
家の中は、季節ごとに変わる花の香りと、両親の優しい笑い声で満ちていた。
時折、父の低い叱声が響くことはあったが、それもまた愛情のひとつの表現だったのだと、今は思う。
私は両親が年老いてから授かった子だったからだろうか、二人は私を宝物のように扱った。
夜、眠りにつくとき、母がそっと髪を撫でてくれる手のぬくもり。
朝、窓から差し込む陽光に微笑む父の横顔。
家族という名の繭に守られて、私は何一つ不自由のない少女時代を過ごした。
やがて、春がめぐり、私は大人になった。
好きな人ができた。
学生時代、いくつかの恋が通り過ぎていったけれど、彼──誰よりも遠くに住む、少し不器用なその人と出会ったとき、私は初めて「結婚」という言葉の重さを知った。
遠距離恋愛。
新幹線の窓に流れる風景の速さに、私の心はついていけなかった。
両親と、友人たちと、そして自分自身が築いてきた居場所と。
何か大切なものを手放す不安が、夜ごと胸の奥で波のように打ち寄せた。
バレンタインデーの午後、冷たい風が街角を駆け抜ける中、彼が差し出した小さな箱──逆チョコと、そして控えめな声でのプロポーズ。
私は予感していたはずなのに、言葉がうまく口から出てこなかった。
彼の瞳の奥に宿る真剣な光を前に、私の心は、静かに揺れ続けた。
「……ありがとう。
でも、少し時間をちょうだい」
その場で頷けなかったことを、私は今でも思い出す。
次のデートまでの二週間、私は眠れぬ夜を重ねた。
コーヒーの苦さが、朝のまどろみと昨夜の迷いを流し込む。
両親も、何も聞かずに私を見守ってくれていた。
窓の外では、木蓮の蕾がほころび始め、季節は確実に動いていく。
彼と結婚しよう。
そう決めたのは、プロポーズされた時の幸福感が、心の奥底に静かに灯り続けていたからだ。
愛している。
けれど同時に、私は家族との別れを思い、胸が締めつけられるように苦しかった。
結婚を決めてからの日々は、まるで砂時計の砂が加速度的に落ちていくようだった。
できるだけ両親や友人と時を過ごし、少しずつ荷物をまとめ、心の準備を整えていく。
夕暮れどき、台所で母と並んで食器を洗う。
手から伝わる水の冷たさ、窓の向こうで赤く染まる空。
どんなありふれたひとときも、かけがえのない宝物に思えた。
そして、結婚式の日がやってきた。
式場の控え室で、私は深く息を吸い込む。
スカートの裾をそっとつまみ、静かに会場へと歩み出す。
無数の視線とフラッシュの光が、白いドレスを包み込んだ。
時間は、流れる川のように速く過ぎていく。
披露宴。
彼のお母様が、息子へのラストバイトを涙ぐみながら見守る。
次は、私の番だ。
私はそっとバッグの中から、自宅の食器棚にいつもあったスプーンを取り出した。
母は、一瞬驚いた表情を浮かべる。
「お母さん、これ……覚えてる?」
私はスプーンを母に手渡した。
母の手が、わずかに震えていた。
「ああ、あなたが小さい時、よく使っていたわね」
母はケーキをすくい、私の口元へそっと運ぶ。
その瞬間、彼女の瞳に涙が滲んだ。
甘いクリームの味と、母の温かな手の感触が心に刻まれる。
式場のスタッフがスプーンをきれいに洗い、母に手渡してくれた。
「ありがとう。
これは、私の宝物よ」
母はそう言って、スプーンを胸に抱いた。
春の柔らかな光が、式場の窓から差し込む。
新しい人生の始まりの予感と、過ぎ去った日々への感謝が、私の心に静かに降り積もっていく。
今も、実家の食器棚には、あの日のスプーンが眠っている。
たくさんの思い出とともに──。
恋愛の話:スプーンに映る春──母の手と私の旅立ちの記憶
スプーンに映る春──母の手と私の旅立ちの記憶
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