小学生だったあの頃、僕の住んでいた町は、どこか懐かしい昭和の香りが色濃く残る場所だった。
低層のアパートが点在し、夕暮れ時には子供たちの歓声や犬の吠える声が木霊し、アスファルトの隙間からは雑草が逞しく頭を覗かせていた。
そんな町の路地裏には、どこか現実離れした存在感を放つ「おっさん」がいた。
彼は年齢不詳で、いつも古びたチェックのシャツと色あせたジーンズを身にまとい、擦り切れたスニーカーで町を歩き回っていた。
その歩き方は、まるで何かを探しているかのような、不規則なリズム。
彼の背中は少し曲がっていて、長い腕が不自然にぶら下がり、歩くたびにシャツの裾が風に揺れた。
彼の姿を遠くから見かけるたび、僕の胸の奥で小さな不安がざわめいた。
町の大人たち、そして僕の両親でさえも、「あの人には近づくな」と何度も念を押した。
理由は明確ではなかった。
ただ、人々は彼のことを「奇妙だ」「関わってはいけない」と口を揃えて囁く。
そんな大人たちの警戒心が、子供たちの間にも伝染していった。
だから、僕も彼と目が合わないように、なるべく視線を逸らし、遠巻きに見てはそっとため息をついていた。
けれど、おっさんは決して危害を加えるわけではなかった。
ただ、彼は常にぶつぶつと何かを呟きながら歩いていた。
その呟きは、時には風にかき消され、時には微かに耳に届いた。
「ああ、またか…」というような、どこか諦めと慈しみの入り混じった響き。
彼の声は低く、かすれ気味で、まるで遠い昔のラジオから流れるノイズのようだった。
僕はいつしか、その声の温度やリズムさえも、町の風景の一部として受け入れ始めていたのかもしれない。
ある夏の日、陽射しが強く、空気がじっとりと肌にまとわりつく午後。
僕はサッカークラブの練習に参加していた。
グラウンドの土は熱を帯び、スパイクの裏から伝わる熱さが、靴下越しにジリジリと足を焼く。
僕たちの声やボールの跳ねる音が乾いた空気を震わせていた。
試合形式の練習が白熱し、僕はボールを追いかけることだけに集中していた。
緊張と興奮で、喉がカラカラになっていた。
突然、相手チームの子と激しくぶつかり合い、僕の身体は宙を舞った。
地面に叩きつけられた瞬間、首に鋭い痛みが走り、世界の色が一瞬だけ白くはじけた。
その後の出来事は断片的にしか覚えていない。
周囲のざわめき、監督の慌てた声、心配そうに集まる友達たち。
首にじわじわと広がる鈍痛、汗と土の匂い、遠くで響く救急車のサイレン。
医務室に運ばれる間、僕の意識は何度も途切れそうになった。
目の前がかすみ、息苦しさと不安が胸を締めつけた。
やがて、病院の白い天井が視界に広がり、医者の深刻そうな表情と、僕の肩を優しく支える母の手の温もりが交互に感じられた。
診察の結果、鎖骨の骨折だった。
ギプスで首と肩をがっちりと固定され、動くたびにプラスチックの冷たさと硬さが皮膚に食い込んだ。
帰り道、夕暮れの校門を通りかかったとき、不意に誰かの視線を感じて振り返った。
校門の外側、朽ちかけたフェンス越しに、あのおっさんがじっと僕を見ていた。
彼の目はどこか遠くを見つめるようでありながら、確実に僕を捉えていた。
その静かな眼差しが、なぜか妙に心に残った。
翌朝、眠りの浅さが残るまま、僕は首を固定したまま学校へ向かった。
制服の襟がギプスに引っかかり、歩くたびに擦れる音が耳に残る。
教室の空気はいつもより湿って重く、クラスメイトたちの視線が一斉に僕の首元に注がれた。
休み時間、ふと窓際に立ち寄り、外の景色に目をやる。
校庭の向こう、フェンスの陰に、またしてもおっさんの姿があった。
夏草に埋もれるように、じっと佇んでいる。
彼の存在は、まるで町の無意識が生み出した影法師のように、僕の日常にじわりと入り込んできていた。
その日の帰り道。
薄く曇った空、夕焼けが雲の間からわずかに顔を覗かせていた。
友人と二人、いつもの道を歩いていると、曲がり角の先に、おっさんが立っていた。
彼の足元には、誰かが捨てた空き缶や、色褪せた紙くずが転がっている。
僕の鼓動が早まった。
友人が「やばい、逃げようか」と小声で囁いたが、僕はなぜか足がすくんで動けなかった。
おっさんは静かに、しかし確かな歩調でこちらに近づいてきた。
彼の足音が、アスファルトの上に乾いたリズムを刻む。
すれ違いざま、彼は何も言わず、そっと僕の首元に手を伸ばした。
その瞬間、僕の全身が硬直した。
おっさんの手は思いのほか温かく、かすかに汗ばんでいて、触れられた場所からじんわりと熱が伝わってきた。
彼は目を閉じ、額に汗をにじませながら、無言で僕の首に手を当て続けた。
僕は恐怖と困惑で呼吸が浅くなり、空気が喉の奥で詰まるような感覚に襲われた。
友人は固まったまま何も言えず、二人の間に流れる時間だけが異様に引き延ばされていく。
道端のセミの声、遠くで響く車のエンジン音、夏の終わりを告げる湿った土の匂い――すべてが現実感を失っていった。
数分間が過ぎたのち、おっさんはそっと手を離した。
彼の額からは大粒の汗がつたっていた。
僕は反射的に身体を引き、全速力で家まで駆け出した。
走りながら、心臓が激しく波打ち、呼吸が熱く荒くなる。
家の玄関先で息を整え、ようやく落ち着きを取り戻したとき、ふと気づいた。
あれほど痛かったはずの首に、まったく違和感がない。
ギプスの重みだけが残り、痛みも痺れも消えてしまっていた。
その夜、僕は両親に今日の出来事を話そうとした。
しかし、話し始めた途端、彼らの表情が曇り、信じられないという色がはっきりと浮かんだ。
「気のせいじゃないの?」「そんなこと、あるわけない」と言われ、僕は口をつぐんだ。
ただ、母がギプスの上からそっと僕の首を撫で、「でも、痛くないならよかった」と優しく微笑んだとき、胸の奥がほんの少しだけ温かくなったのを覚えている。
一週間後、経過観察のために再び病院を訪れた。
白い診察室、消毒液の刺激的な匂い、医師の冷静な声。
その医師はレントゲン写真を見て、目を見開いた。
「これは…おかしいですね。
骨折の痕跡が全くありません」と、驚きを隠せなかった。
僕自身も信じられない思いで、首を慎重に動かしてみたが、やはり痛みはなかった。
まるで、最初から何もなかったかのように。
僕は改めて「あのおっさん」にお礼を言おうと思い、町を何度も歩き回った。
しかし、不思議なことに、彼の姿はどこにも見つからなかった。
町の誰に訊いても、「そういえば最近見かけないね」と首をかしげるばかりだった。
彼はまるで、あの日を境にこの町からすっと消えてしまったかのようだった。
今振り返れば、子供たちの間では彼の評判は意外にも悪くなかったことに気づく。
誰かが転んだときに手を貸してくれたり、落としたボールを黙って拾ってくれたり。
大人たちの噂とは裏腹に、彼は静かに町の子供たちを見守っていたのかもしれない――そんな思いが、今になって胸を満たす。
今日も、あの町の夕暮れを思い出すたび、ほんのり湿った夏の空気に包まれた「おっさん」の背中が、心のどこかで僕を見守っているような気がしてならない。
彼がどこかで、静かに元気でいてくれることを、僕はそっと願っている。
不思議な話:町の片隅に棲む「奇妙なおっさん」と僕――小学生時代、不可思議な邂逅と癒やしの記憶
町の片隅に棲む「奇妙なおっさん」と僕――小学生時代、不可思議な邂逅と癒やしの記憶
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