不思議な話:薄明の街に消えた声――骨折と奇妙なおっさんの記憶

薄明の街に消えた声――骨折と奇妙なおっさんの記憶

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朝靄が、まだ眠り足りない街を薄絹のごとく包み込んでいた。
小学生だった僕は、ランドセルの重みに肩を揺らしながら、いつもと同じ道を歩いていた。
けれど、その町には、誰もが避けて通る影があった。

 「あのおっさんに近寄るんじゃないよ」
 母の声が、雨上がりのアスファルトの匂いとともに、今も耳に残っている。
男は、古びたコートを羽織り、ぶつぶつと呟きながら、決まって夕暮れの歩道を徘徊していた。
誰も彼の名を知らず、ただ「奇妙な人」と呼んだ。

 その頃、僕はサッカークラブに通っていた。
ある曇りの日の午後、グラウンドの芝生は湿り、空気がぬるく重かった。
試合中、相手と激しくぶつかりあい、僕の首は思いもよらぬ方向へとねじれた。
鈍い痛みが稲妻のように走り、視界が白く弾ける。
冷たい土の感触。
呼吸をするたび、骨の奥で何かが軋むようだった。

 病院の蛍光灯が、やけに冷たく感じられた。
レントゲン写真の向こうで、医師が静かに告げた。
「鎖骨が折れている」
 ギプスで首を固められ、僕はまるで木偶の坊のようになった。
その帰り道、校門の向こうに、あの“おっさん”の姿があった。
彼はじっと僕を見つめていた。
眼差しは、どこか悲しげで、深い湖の底を覗き込むようだった。

 翌朝も、世界は変わらず動いていた。
ただ、僕の首はがちがちに固まっていた。
クラスメイトの視線が、痛々しさと好奇心をないまぜにして僕に注がれる。
休み時間、廊下の窓から外を見ると、薄曇りの空の下、おっさんが校庭の隅にぽつんと立っていた。

 放課後、友人たちと連れ立って家路をたどる。
夕暮れの気配が街を薄紅に染めるころ、あの男は、角の電柱の影に待っていた。

「……」

 彼は、何も言わずに僕に近づいた。
僕の心臓は、鼓動を忘れたように沈黙した。
おっさんの手は、驚くほど冷たかった。
彼はそっと僕の首に手を当て、まるで何かを祈るように目を閉じた。
その額には、じわじわと汗が浮かんできた。
時間が止まったように、世界が静まり返る。
ただ、遠くで犬の鳴き声が風に流れていった。

 やがて、おっさんはそっと手を離し、何も言わずに路地の向こうへと消えていった。
僕は恐怖に駆られ、その場を駆け出した。
身体が震えていた。
冷たい風が頬を叩き、涙のような汗が首筋を伝った。

 家にたどり着き、息も絶え絶えに両親にすべてを話そうとしたとき――ふと、気づいた。
首の違和感が、消えていたのだ。
まるで、今まで何もなかったかのように。

 一週間後の診察日、病院の白い廊下は、いつもより眩しく思えた。
医師はレントゲン写真をじっと見つめ、驚きの表情を隠せなかった。
「骨折の痕が、どこにもない……どういうことだ?」
 両親は不思議そうに首を傾げたが、僕の話には耳を貸さなかった。

 ――夢でも見ていたのじゃないか、と。

 僕自身も、現実と幻の境界が霞んでいくのを感じていた。
けれど、どうしてもお礼を言わなければと思い、あの男を探しに町を歩いた。
しかし、彼の姿はもうどこにもなかった。
まるで、朝靄の中に溶けてしまったかのように。

 今、あの淡い記憶を振り返るたび、子供の間でひそかに人気だった、優しいおっさんの姿がぼんやりと浮かぶ。

 彼はいま、どこで何をしているのだろう。

 ただひとつ、願うことがある。

 どうか、元気でいてほしい。
読了
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