社会人として三年目。
春の新しい風がまだ肌に馴染まない頃、私は上司から新人教育を任されることになった。
オフィスの窓から差し込む午前の光は、まだどこか冷たさを残して床に落ち、フロアの隅には昨日の疲れが静かに沈殿している。
そんな日常の中で、彼――新入社員の斎藤くんが、真新しいスーツに身を包み、緊張した面持ちで私の前に現れた。
彼の黒髪は光を受けて柔らかく反射し、瞳はまっすぐに私を見据えていた。
あの時の私は、どんな表情をしていただろうか。
先輩として毅然とした態度をとろうと意識しながらも、内心では「上手く導けるのだろうか」という不安が喉元に棘のように引っかかっていた。
初対面の空気は、薄く張り詰めたガラスの膜のようだった。
言葉を交わすたび、彼の返事は歯切れがよく、若さゆえのまっすぐさが伝わってくる。
けれど、慣れない立場で私もどこかぎこちなく、二人の間には微かな沈黙が何度も流れては消えていった。
彼の声が少し震えていたこと、私自身の手のひらがひどく汗ばんでいたこと、その全てが今も鮮明に思い出される。
日々は淡々と過ぎていった。
春が夏へと移ろう頃、彼と私は少しずつ距離を縮めていった。
仕事終わりの廊下、夕暮れのオレンジ色に染まる窓際の会話、時折交わす冗談。
彼は時には失敗し、私も叱ることがあったけれど、その度に彼は素直に反省し、次の日には必ず成長している。
その積み重ねが、私の胸に静かな誇りと温もりを積もらせていった。
やがて、私たちは先輩後輩の枠を少しだけ超え、週末に二人だけで飲みに行くほどの仲になった。
ある夜、仕事の区切りを祝して、私たちは職場近くの大衆居酒屋に立ち寄った。
薄暗い照明の下、木のテーブルには湯気の立つおでんや焼き鳥が並び、周囲には心地よいざわめきと、ほのかに焦げたタレの香りが満ちている。
私たちは肩を並べて座り、グラスを傾けながら、互いの仕事への思いや失敗談を笑い合った。
アルコールが体に回るにつれ、頬が熱を帯び、心の奥底までほんのりと緩んでいくのを感じた。
店を出て、夜風に吹かれながら歩く帰り道。
ネオンの明かりがアスファルトに滲み、都会の夜の湿度が肌にまとわりつく。
彼はふと立ち止まり、私の方を真剣な眼差しで見つめて言った。
「明莉さんは彼氏いるんですか?」
突然の問いかけに、私は一瞬足を止めた。
周囲の喧騒が遠のき、心臓の鼓動が不意に大きく耳に響く。
彼の声はいつもより低く、真摯さとわずかな迷いが滲んでいた。
何を答えていいのか分からず、私は短く「いないよ」とだけ返した。
口の中は少し乾いていて、言葉に僅かな含みを持たせてしまったかもしれない。
彼は少しだけ間を置き、呼吸を整えるように深く息を吸い込んだ。
街灯の下、彼の影が私の影と重なり合う。
「それなら、僕にもチャンスありますか? まだ教わることばかりで情けないですけど――」
彼の声は、これまで聞いたどんな言葉よりも率直で、拙くて、しかしまぶしかった。
「いつか明莉さんに頼ってもらえる男になりますから、それまで待っていてくれませんか」
その瞬間、胸の奥に温かい震えが走った。
私の心は、どこか懐かしい痛みとともに高鳴っていた。
社会人になってから、恋愛や自分の気持ちを意識的に遠ざけてきた。
けれど、こんなにも真っすぐな思いを向けられると、過去の傷も、積み重なった時間も、静かに溶けていくのを感じる。
数カ月が過ぎた。
彼は仕事の面でも、目覚ましい成長を見せてくれた。
新しいプロジェクトを一人で任されたときの真剣なまなざし、ミスをしても決して逃げずに立ち向かう姿。
私は彼の変化を、誰よりも近くで見守り続けた。
嬉しさと誇らしさ、そしてほんの少しの切なさが、胸の奥に静かに積もる。
彼が成長するほど、私は彼の存在を意識せずにはいられなかった。
仕事中、ふとした瞬間に彼の声が脳裏に響き、帰り道に彼の横顔を思い出す。
そのたびに、胸の奥に微かな期待が芽生える。
「早く迎えに来て」――心の奥で何度もそう願いながら、私は今日も彼の成長を誰よりも喜び、そっと見守り続けている。
春の夜、あの日の帰り道に感じた夜風の匂いと、彼の言葉の余韻は、今も私の心に優しく残響している。
恋愛の話:先輩としての責任、揺れ動く胸の奥――春の夜、後輩が告げた未来への約束
先輩としての責任、揺れ動く胸の奥――春の夜、後輩が告げた未来への約束
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