恋愛の話:春の灯、まだ遠く──新人と先輩の静かな約束

春の灯、まだ遠く──新人と先輩の静かな約束

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朝の光が、ガラス越しに薄く射し込む。
まだ街は眠りの余韻に包まれていて、私はオフィスビルのロビーで小さなため息をひとつ吐いた。
社会人三年目。
肩にのしかかる責任の重さが、春先の冷たい空気とともに身に沁みる。

 新人教育を任されたのは、ほんの一週間前のことだった。
人事からの淡々とした通達。
その瞬間、胸の奥底で何かが静かに軋んだ。
頼まれたのが嬉しくないわけじゃない。
けれど、誰かを導くことの難しさを、私はまだ十分知ってはいなかった。

 初対面の日、彼はまっすぐな目で私を見た。
名札の下から覗く新しいスーツの襟元に、まだ糊の香りが残っていた。

「本日からお世話になります。
藤崎です。
よろしくお願いします」
 声は澄んでいて、どこか迷いのない響きがあった。
けれど私のほうは、どう返せばいいのか迷い、ぎこちない微笑みを浮かべることしかできなかった。



 季節はゆっくりと進み、桜の花びらが昼休みの空を舞い始める頃、藤崎とは仕事だけではなく、たまに食事を共にするようになった。
彼はいつも礼儀正しく、けれど時折、少年のような無邪気さで私を驚かせた。

 ある夕暮れ、私たちは駅前の古びた居酒屋にいた。
暖簾の隙間から洩れる灯りが、外の世界と小さな繭のような空間を隔てていた。
焼き鳥の煙と、醤油の焦げる香り。
生ぬるいビールの泡が、喉を静かになでていく。

「明莉さんって、彼氏いるんですか?」

 ふいに藤崎が言った。

 その問いは、不意打ちのように私の胸を叩いた。
グラスを持つ手が、わずかに震える。
私は答えを探しながら、わざと軽い調子で返した。

「いないよ。
そんな余裕、今はないし」

 沈黙。

 その間に、彼は何かを決意したように、真剣な眼差しを向けてくる。

「それなら……僕にも、チャンスはありますか? まだまだ未熟で、毎日明莉さんに頼ってばかりだけど、いつか必ず、明莉さんに頼ってもらえる男になります。
その日まで、待っててもらえますか」

 彼の言葉は、静かながらも熱を帯びていた。

 焼き鳥の串を握る手が汗ばむ。
心の奥で、柔らかな波紋が広がっていく。
冗談めかして笑い飛ばすこともできたはずだった。
だけど私は、ただ黙って頷くだけだった。



 それからの日々、私は彼の成長を目の当たりにした。
失敗を重ね、悔しさを滲ませる姿も、時には小さな成功に子どものようにはしゃぐ姿も、すべてがまぶしかった。

 会議室の窓辺、夕焼けに染まる彼の横顔を見るたび、私の心は淡い喜びと、どこか切ない焦燥に満たされた。
彼の歩みに、私自身も少しずつ背中を押されているような気がした。

 けれど、その距離はまだ、ほんの少しだけ遠かった。

 心のどこかで、私は静かに願っていた。

(早く、迎えに来て)
 言葉にはできない祈りを胸に、私は今日も彼を見守り続ける。

 街の灯りが滲み、夜の帳が静かに降りていく。
春の風が、まだ冷たさを残しながらも、確かに新しい季節の予感を運んでいる。
その予感が、いつか私たちを優しく包む日を信じて──。
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