午後三時、冬の陽射しがリビングの白いカーテン越しに淡く差し込んでいた。
テーブルの上には温もりを失いかけた紅茶のカップと、母が焼いたクッキーの残りがひとつ。
外からは誰かが遠くで剪定する樹木の微かな音が聞こえる。
空気は乾き、家の中の静寂が、まるでガラスのように張り詰めていた。
その静けさを破ったのは、母の低く震える声だった。
「離婚しましょう」――。
母の唇は乾き、声はどこか遠くから響いてくるように感じた。
彼女の指先はテーブルの端をかすかにつまみ、震えている。
息を吸い込む音さえ大きく思えたほど、リビングには張り詰めた空気が満ちる。
父は新聞を読む手を止め、ゆっくり視線を上げる。
細い眼鏡の奥、黒い瞳が細く揺れたが、顔に浮かんだのは驚きでも怒りでもない。
「いいよ」
その返答は、冷たくもなく、優しくもなく、波紋一つ立てぬ湖面のような静けさをまとっていた。
父の声は低く、乾いた空気に吸い込まれるようだった。
年収一千万という数字がこの家の冷蔵庫に貼られた家計簿を思い出させる。
家の中には、金銭的な安定の象徴としての静謐さと、どこか満たされぬ寂しさが漂っていた。
母は一瞬唇を噛み、視線を床に落とす。
彼女の肩甲骨がコートの下で小さく震える。
「今すぐは無理だけど、子供たちを連れて出ていくつもり」と、母はゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
その言葉が、まるで無機質な氷柱のように空間に突き刺さる。
私は無意識に椅子の縁を握りしめ、冷えた木の感触が指に食い込んだ。
妹はソファの隅で膝を抱え、眉間に深く皺を寄せている。
「ヤダ」
私たちは同時に声を上げ、互いの顔を見合う。
妹の瞳は涙で光り、私は喉の奥が急に渇いた。
部屋の壁紙の花柄がやけに色褪せて見え、時計の秒針が異様に大きな音で時を刻む。
母の指がテーブルの端を離れ、ゆっくりと膝の上で組み直された。
時は流れ、六年が過ぎた。
季節は巡り、家の壁紙はさらに色褪せ、妹は高校を卒業し、私は大学生になった。
父は相変わらず朝早く出勤し、夜遅く帰宅する生活を続けていた。
彼の背中は以前より小さくなったように見える。
母は週に数度、家に顔を出し、冷蔵庫の中身を確かめては、何かを呟いていた。
ある雨上がりの夕方。
湿った空気が家の中にまで忍び込み、床は少し冷たかった。
母が珍しくリビングに長く腰掛けていた。
「まだ出て行けないけど、新しい男ができたから家に連れてくる」と、母は唐突に言った。
その瞬間、リビングの空気が一気に重くなった。
母の表情はどこか高揚しているようで、目元だけが異様に輝いていた。
私は言葉を失い、妹は目を見開いて母を見つめている。
「家の鍵は返さない。
妹が大学を卒業するまで養育費をよこせ」
母の声は、まるで要求のリストを読み上げる店員のように冷静だった。
彼女の手は膝の上で固く握られ、指の関節が白くなっているのが見えた。
私はその手の動きに幼い頃、母が私たちを抱きしめてくれた日の温かさを一瞬思い出したが、すぐにその記憶は遠ざかった。
「ガイジかな」
私は低く呟いた。
自分でも驚くほど平坦な声だった。
心の奥底では、混乱と怒り、そして呆れが渦巻いている。
言葉にできない感情が胸の奥で熱を持ち、呼吸が少し浅くなる。
妹も硬直したまま、静かに口を開いた。
「父親のところにいる」
妹の声は震えていたが、決意が籠もっていた。
母はその言葉を聞くと、顔をしかめ、唇を真一文字に結ぶ。
「うるさい、親権は私だぞ。
いいから金をよこせ。
新しい男と1部屋しかない部屋に住むから妹も来い!」
母は一気に言葉を畳みかける。
声が少し上ずり、リビングの壁に反響する。
彼女の瞳はどこか焦点が合わず、過去の幸福な家族写真に背を向けている。
その場にいた私と妹、そしてちょうど帰宅した父は、心の奥底で同じ言葉を思った。
「ガイジかな」
誰もそれを口にはしなかったが、沈黙が重く家を包み込んだ。
外では雨が再び降り出し、窓ガラスに小さな水滴が次々と流れ落ちる。
その音だけが、家族の亀裂の余韻を静かに刻み続けていた。
時は静かに進み、家の中には、かつての温もりと新たな不穏さが交錯した空気が漂い続けていた。
修羅場な話:静寂を切り裂く母の宣告、家族の亀裂と時の重みを描く六年の物語
静寂を切り裂く母の宣告、家族の亀裂と時の重みを描く六年の物語
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