朝の光が、まだ冷たさを残したままカーテン越しに差し込んでいた。
台所からは炒め物の油がはじける微かな音がして、母は黙々と朝食を作っていた。
父は新聞を広げ、コーヒーの湯気が机の上で静かに揺れている。
妹はまだ眠そうに、頬杖をついたままテーブルに座っていた。
その朝、母はまるで天気予報でも告げるような調子で言った。
「離婚しましょう」
僕は手にしたパンを落としかけた。
父は、新聞の縁を指でなぞりながら、少しの間だけ沈黙した。
外では、朝靄の中をバスが通り過ぎる音が遠くに響いている。
「そうか、いいよ」
父の声は、湖面に石を投げ込んだように静かだった。
母は、まっすぐ窓の外を見た。
「今すぐは無理だけど、子供たちを連れて出ていくから」
僕と妹は同時に、「ヤダ」と声をあげた。
妹の声は少し震えていた。
母の指先が、カップの縁をそっとなぞっている。
食卓の空気が、急に冷たく透明になった気がした。
*
それから六年の時が、まるで誰かが気まぐれにめくるカレンダーのように、淡々と過ぎていった。
季節は何度も巡り、家の窓辺には桜の花びらが舞い込んだり、秋の透明な光が差し込んだりした。
けれど、家族の輪郭だけは、少しずつぼやけていった。
ある春の夕暮れ、母は再び口を開いた。
カーテンの向こう、茜色の空が一日の終わりを告げている。
「まだ出て行けない。
でも、新しい男ができたから、家に連れてくるわ」
妹が本から目を上げた。
僕は少しだけ、笑いそうになった。
母は続けた。
「家の鍵は返さない。
妹が大学を卒業するまで、養育費を払い続けて」
油の焦げる匂いと、母の言葉が部屋の中で絡み合う。
「……ガイジかな」
つぶやくように僕は言った。
声は小さかったが、母の耳には届いたようだ。
妹も、静かに言葉を継いだ。
「私はお父さんのところにいる」
母の表情がわずかに歪む。
けれど、彼女は強い調子で言い返した。
「うるさい、親権は私よ。
いいから金を払いなさい。
新しい男と一部屋しかない部屋に住むんだから、妹も一緒に来なさい」
その言葉は、家の壁をすり抜けて春の夜気に消えていった。
僕と妹、そして父――
誰もが心の奥で、同じ思いを抱いていただろう。
家族という硝子細工が、音もなく軋み、今にも崩れ落ちそうな錯覚にとらわれていた。
夜になって、僕は窓を開ける。
遠くで電車の警笛が、寂しげな獣の遠吠えのように響いた。
――家族とは、いったい何なのだろう。
僕の問いかけに、答える者は誰もいなかった。
修羅場な話:春の硝子――家族が壊れる音を聴きながら
春の硝子――家族が壊れる音を聴きながら
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