修羅場な話:春の硝子――家族が壊れる音を聴きながら

春の硝子――家族が壊れる音を聴きながら

📚 小説 に変換して表示中
朝の光が、まだ冷たさを残したままカーテン越しに差し込んでいた。
台所からは炒め物の油がはじける微かな音がして、母は黙々と朝食を作っていた。
父は新聞を広げ、コーヒーの湯気が机の上で静かに揺れている。
妹はまだ眠そうに、頬杖をついたままテーブルに座っていた。

 
 その朝、母はまるで天気予報でも告げるような調子で言った。

 「離婚しましょう」
 
 僕は手にしたパンを落としかけた。
父は、新聞の縁を指でなぞりながら、少しの間だけ沈黙した。
外では、朝靄の中をバスが通り過ぎる音が遠くに響いている。

 「そうか、いいよ」
 父の声は、湖面に石を投げ込んだように静かだった。

 
 母は、まっすぐ窓の外を見た。

 「今すぐは無理だけど、子供たちを連れて出ていくから」
 
 僕と妹は同時に、「ヤダ」と声をあげた。
妹の声は少し震えていた。
母の指先が、カップの縁をそっとなぞっている。
食卓の空気が、急に冷たく透明になった気がした。

 

 
 それから六年の時が、まるで誰かが気まぐれにめくるカレンダーのように、淡々と過ぎていった。
季節は何度も巡り、家の窓辺には桜の花びらが舞い込んだり、秋の透明な光が差し込んだりした。
けれど、家族の輪郭だけは、少しずつぼやけていった。

 
 ある春の夕暮れ、母は再び口を開いた。
カーテンの向こう、茜色の空が一日の終わりを告げている。

 「まだ出て行けない。
でも、新しい男ができたから、家に連れてくるわ」
 
 妹が本から目を上げた。
僕は少しだけ、笑いそうになった。

 母は続けた。

 「家の鍵は返さない。
妹が大学を卒業するまで、養育費を払い続けて」
 
 油の焦げる匂いと、母の言葉が部屋の中で絡み合う。

 
 「……ガイジかな」
 つぶやくように僕は言った。
声は小さかったが、母の耳には届いたようだ。

 妹も、静かに言葉を継いだ。

 「私はお父さんのところにいる」
 
 母の表情がわずかに歪む。
けれど、彼女は強い調子で言い返した。

 「うるさい、親権は私よ。
いいから金を払いなさい。
新しい男と一部屋しかない部屋に住むんだから、妹も一緒に来なさい」
 
 その言葉は、家の壁をすり抜けて春の夜気に消えていった。

 
 僕と妹、そして父――
 誰もが心の奥で、同じ思いを抱いていただろう。
家族という硝子細工が、音もなく軋み、今にも崩れ落ちそうな錯覚にとらわれていた。

 
 夜になって、僕は窓を開ける。
遠くで電車の警笛が、寂しげな獣の遠吠えのように響いた。

 
 ――家族とは、いったい何なのだろう。

 
 僕の問いかけに、答える者は誰もいなかった。
読了
スワイプして関連記事へ
0%
ホーム
更新順
ランダム
変換
音読
リスト
保存
続きを読む

コメント

まだコメントがありません。最初のコメントを投稿してみませんか?

記事要約(300文字)

ダミー1にテキストを変換しています...

0%
変換中