孤独な少年の記憶と、親友がくれた救いの手――静寂と痛みの中で灯る希望の物語

僕がまだ幼い頃――たぶん、五歳か六歳だったと思う。

その日も、鉛色の雲が垂れこめる早朝、僕は薄暗い部屋の片隅に座っていた。
湿った畳の冷たさが、薄い肌着越しにじわじわと背中に染み込んでくる。
外からは、遠くでカラスが鳴く声と、町の目覚ましが鳴る微かな音が重なり合っていた。

両親は、まるで僕がそこにいないかのように、重苦しい沈黙の中で荷物をまとめていた。
父の背中は大きく、けれどどこか頼りない影を落としていた。
母の指は細く、震えながらも手早く、僕の持ち物を無造作に袋へ詰め込んでいく。
その指先から伝わる冷たさは、言葉よりもはっきりとした絶望だった。

最後に、母は僕を一瞥し、唇を固く結んだまま目をそらした。
父は何か言おうとしたのかもしれないが、かすれた喉の奥から言葉が出てこなかった。

「……行くわよ」
母の声は、まるで壊れたガラスのように冷たく、僕の心を切り裂いた。

それが、僕が「家族」と呼べるものの終わりだった。

その日から、僕は場所を転々とする日々を送ることになる。

朝、窓の外に広がる灰色の空。
どこか消毒液の匂いが染みついた施設の廊下。
薄暗い照明の下、同じ部屋に何人もの子どもが並んで眠る。
布団は少し湿っていて、冬になると吐く息が白く見えた。

「施設の子」――それが、僕につけられた名前だった。

僕の服は、誰かのおさがりで、いつも同じ色――くすんだ灰色や、色褪せた青。
膝にはほつれた穴が空き、袖は少し短い。

ある日、町の広場を歩いていると、何人かの子どもたちが僕を指さして笑った。

「ねえ、あの子、また同じ服着てるよ！」「乞食みたい！」
その声は妙に甲高く、僕の耳を刺した。

笑い声とともに、僕の足元に小石が転がる。
僕は下を向いたまま、ただ静かに歩くことしかできなかった。

時々、僕は同じクラスの子どもたちと遊ぶ機会があった。

「ねえ、今日は○○君の家に遊びに行こうよ！」
その言葉に、僕は少しだけ胸が高鳴った。
家――それは、僕がもう持てなくなったもの。
どんな場所なのか、どんな匂いがするのか、どんな会話があるのか――想像するだけで心がざわめいた。

けれど、僕たちがその家の前にたどり着くと、空気が突然重くなるのがわかった。

玄関のドアの奥から、怒気を孕んだ女性の声が響いた。

「○○！あんた、あの子と遊んじゃいけないって言ったでしょ！」
その声は壁を突き抜け、僕の胸に鋭く突き刺さる。

やがて、ドアが少しだけ開く。
中から現れた母親は、まるで汚れたゴミを見るような眼差しで僕を睨みつけた。

「○○は今日は遊べないの……」
吐き捨てるようなその言葉とともに、扉が音を立てて閉じられる。

ドアの向こうに残ったのは、沈黙と、微かに漂う夕食の匂いだけだった。

冷たい風が頬を撫でる。
薄暗くなりはじめた道端に、僕の影が長く伸びていた。

そんな出来事が、何度も、何度も繰り返された。

最初は涙がこぼれたけれど、やがて僕は泣かなくなった。

心の奥で、何かが音を立てて崩れていくのを感じた。

一人でいること――それが、傷つかずに済む唯一の方法だと悟った。

でも、本当は、言いたいことが山ほどあった。

たとえ服が汚れていても、同じ服ばかり着ていても、僕は誰かの物を盗ったことも、人を傷つけたことも、一度だってない。

両親がいないことだって、僕にはどうすることもできなかった。

それでも、心の底ではずっと、
――お父さんも、お母さんも、欲しかった。

そう叫びたかった。

だから僕は、できるだけ人と関わらず、生きることを選んだ。

誰にも迷惑をかけずに。

誰の記憶にも残らずに。

静かで、孤独で、透明な存在として。

それが、僕にできる唯一の自衛だった。

――

季節が巡り、僕は高校生になった。

春、まだ朝露が残る通学路を歩きながら、どこか自分の存在が薄くなっていくように感じていた。

その日も、校舎の冷たい階段を上がり、教室の扉を静かに開けた。

朝の教室には、蛍光灯の白い光が漂い、生徒たちのざわめきや椅子を引く音がこだましていた。

僕は、無意識のうちに小さく肩をすぼめ、自分の席へと向かった。

その瞬間、僕の視界がぐらりと揺れた。

自分の机の上に、黒々とした文字が乱暴に書き殴られていたのだ。

「死ね」「乞食」「貧乏神」「親無し」――
油性マジックの強烈な匂いが鼻をつく。

文字は太く、机の木目を埋め尽くすように広がっていた。

一瞬、教室のざわめきが遠のき、僕の耳には自分の心臓の音だけが大きく響いた。

手のひらがじっとりと汗ばみ、喉が焼けつくように乾く。

僕は何も悪いことをしただろうか？
思考はぐるぐると空回りし、膝が震えるのを必死でこらえた。

ただ、立ち尽くすしかなかった。

どこかで誰かがクスクスと笑う声が聞こえた気がした。

そのとき――
突然、机がふわりと持ち上がった。

驚いて顔を上げると、クラスの人気者、Yが無言で僕の机を抱えていた。

Yの手は大きく、指先に力がこもっていた。

彼の表情は無表情で、けれどその黒い瞳の奥に、何か強い光が宿っていた。

僕は思わず目を閉じた。

――殴られる。

そう覚悟した瞬間、Yは短く「行くぞ」とだけ呟き、机を抱えたまま廊下へと歩き出した。

僕の足は、まるで誰かに引っ張られるように自然とYの後ろについていった。

廊下には、朝の光が差し込んでいた。

Yは黙ったまま技術室へ向かい、重い扉を開けて中へ入る。

部屋の中は、木の香りと古びた機械油の匂いが混じり合っていた。

Yは黙々と紙やすりを探し出し、僕の机の天板に手をかける。

その手つきは丁寧で、けれどどこか不器用だった。

「……つまんないことに負けんなよ」
Yは低い声でそう言い、目を合わせることなく机の傷を削りはじめた。

紙やすりが木をこする音が、静かな空間に心地よく響く。

Yの手は汗ばんでいて、けれどその動きには迷いがなかった。

僕は何も言えず、ただその背中を見つめていた。

心の奥底で、何かが静かに、けれど確実に崩れ去っていくのを感じた。

たった一言なのに、僕の胸の奥に溜まっていた涙が、堰を切ったようにあふれ出した。

肩が震え、呼吸が乱れる。

Yは、そんな僕をちらりと見て、少しだけ照れくさそうに笑った。

「放課後、もう一回ここでニス塗ろうぜ。
そしたら元通りだ」
その言葉は、僕の胸に新しい光を灯した。

僕は涙でぐちゃぐちゃになりながら、何度も何度も頷いた。

その瞬間、初めて「誰かと一緒にいる」という温かさを感じた気がした。

――

それから何年も経った今、Yは6月に結婚する。

教室での出来事も、技術室の木の香りも、あの時の涙の温度も、今も僕の中で鮮明に生きている。

もし、あの日Yがいなかったら。

もし、あの言葉をかけてくれなかったら。

今の僕は、たぶんここにはいなかっただろう。

照れくさくて、面と向かっては言えないけれど――
これからもずっと、親友でいてほしい。

Y、本当にありがとう。

どうか、心から幸せになってください。

君の幸せを、誰よりも願っています。