感動する話:六月の光、消えかけた僕の影に降る

六月の光、消えかけた僕の影に降る

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朝靄が街を薄絹のように包み込む時間、僕はいつも一人だった。
幼い頃、両親に背を向けられたあの日から、世界は静かに色を失っていった。
施設の冷たいベッド、無機質な白い壁。
埃っぽい廊下に響く足音が、やけに大きく感じられた。

 季節が巡るたび、僕はさまざまな場所を渡り歩いた。
春の終わりに咲くタンポポの黄色も、夏の蝉の声も、誰かと分かち合うことはなかった。
小さな僕は、いつも同じ服を着ていた。
擦り切れた袖が、まるで過去への未練を手繰る糸のように、心に絡みついて離れない。

 「施設の子だ」「また同じ服だよ、乞食みたい」
 そう囁く声が、風に乗って耳朶を打った。
時折、同級生たちと遊ぶこともあった。
だが、「○○君の家に行こう!」と誘われて玄関をくぐると、奥から突き刺さるような怒鳴り声が響く。

 「○○君と遊んじゃいけないって言ったでしょ!」
 母親の眼差しは、まるで汚れたものでも見るかのようだった。
「○○は今日は遊べないの……」そう言って、戸は無慈悲に閉ざされた。

 何度も、何度も繰り返された光景。
心が冷たい水に沈められていくようだった。
傷つくことを恐れ、一人でいることが唯一の安息になった。
誰にも迷惑をかけず、静かに、独りきりで。

 けれど、本当は言いたいことが山ほどあった。
僕は誰のものも盗らなかったし、誰かを傷つけたこともない。
汚れた服でも、同じ服ばかりでも、ただ懸命に生きていただけだった。
両親がいないことも、どうすることもできなかった。

 本当は――お父さんも、お母さんも、欲しかった。

 だから、僕はなるべく人と距離を置いて生きた。
傷つくのが怖かったのだ。
心の奥で、何かがぽっかりと空洞になっていた。



 春の終わり、桜の花びらが風に舞う朝だった。
高校に進学したばかりの教室、ほのかなチョークの匂いが漂う中、僕は自分の席に向かった。

 その机には、黒々としたマジックで大きく書かれていた。
「死ね」「乞食」「貧乏神」「親無し」。
言葉という棘が、容赦なく胸に突き刺さる。
目の前が真っ暗になった。
足元が崩れ落ちていくようだった。
僕は何か悪いことをしたのだろうか。
ただ、立ち尽くすしかなかった。

 そのとき、不意に目の前の机が消えた。
驚きに顔を上げると、クラスの人気者、Yが無言で僕の机を抱え上げていた。
Yの表情は読み取れない。
僕は一瞬、殴られるのだと思い、反射的に目を閉じた。

 「行くぞ」
 Yはそうぼそりと呟くと、僕の机を抱えたまま、廊下へと歩き出した。
その背中は、どこか頼もしく、けれど不器用な優しさが滲んでいた。
僕は気がつくと、そのあとを追っていた。

 技術室の重たい扉を開けると、油と木材の混ざった独特の匂いが鼻腔をくすぐった。
Yは黙って紙やすりを取り出し、僕の机の落書きを削り始めた。
擦る音だけが静かに響く。
Yの手は不器用だったが、誠実さが伝わってきた。

 「つまんないことに負けんなよ」
 Yは、やや照れくさそうに言った。
その一言が、氷のように固まっていた僕の心をじわりと溶かしていく。
涙が止まらなかった。
堰を切ったように、心の奥底からあふれ出すものがあった。

 Yは照れ隠しに笑い、「放課後、もう一回ここでニス塗ろうぜ。
そしたら元通りだ」と言った。
僕は泣きながら、何度も何度も頷いた。
手のひらに残る紙やすりのざらつきが、現実の温度を伝えていた。



 六月。
梅雨の合間、淡い光が窓辺に差し込む。

 Yは、もうすぐ結婚する。
幸せそうな笑顔が、初夏の陽射しのように眩しい。
あの日、あの言葉がなければ、きっと今の僕はいなかっただろう。
面と向かっては言えないけれど、ずっと親友でいてほしいと願っている。

 Y、本当にありがとう。

 どうか、どうか幸せになってください。
心から、そう願っている。
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