仕事・学校の話:夜の裏道に漂う異界の気配——警備員が体験したマンホールの闇

夜の裏道に漂う異界の気配——警備員が体験したマンホールの闇

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これは、今でも私の記憶の深層に沈殿し、ふとした瞬間に呼び起こされては、背筋をじっとりと冷やす夜の出来事だ。


私はかつて、地方都市の小さな警備会社で夜勤をしていた。
普段の持ち場は、昼夜問わず車がひっきりなしに通る国道沿いの工事現場だった。
あの現場では、照明塔の白々しい光と、アスファルトを削る重機の轟音、クラクション、工事関係者の怒号など、あらゆる騒音と人工的な色彩が交錯していた。
空気は排気ガスの重苦しい匂いに満ち、耳鳴りが止まらないほどだった。
そんな日々の中で、私はいつも頭のどこかが痺れているような感覚を覚えていた。


だが、その夜は違った。
会社の無線が唐突に鳴り、「今日の夜勤は裏道の臨時現場担当だ」と告げられたのだ。
裏道は、生活道路の水道管工事のために封鎖されていた。
現場に到着した私は、まず空気の違いに驚かされた。
国道沿いの喧騒とは対照的に、裏道には静寂が降り積もっていた。
夜の帳が一層濃く、空気がどこかひんやりしている。
肌をなでる風にはほのかに湿り気があり、草の匂いとコンクリートの冷たさが混じる。


私の任務は、簡単なものだった。
工事区画に車が入らぬよう、通行止めの位置で見張るだけ。
現場は住宅街の路地で、一方通行の細い道が迷路のように入り組んでいる。
私は最寄りの自販機で缶コーヒーを買い、暗がりの中、赤く光る誘導棒を手に、狭い交差点の角に立った。
ここなら、四方の路地が夜の闇に溶けてゆく様子を、一望できる。


夜の静けさは、耳に圧し掛かるほどだった。
時折、遠くで犬の吠える声がこだまし、住宅の窓越しに淡い明かりが漏れる。
ふとした隙間風が制服の裾を撫で、首筋に粟立つような冷気を運ぶ。
車の往来はほとんどなく、最初の一時間、通ったのはたった二台。
どちらも工事区域には近づかず、私はただ赤い光をゆっくりと揺らして見送った。


やがて、夜はさらに深くなり、人影も消えた。
住宅街の家々も一軒ずつ灯りを落とし、周囲はほとんど街灯の明かりだけとなる。
その街灯も、時折蛾が舞い、ちらちらと頼りなげな光を投げかけている。
私は缶コーヒーを啜りながら、思わず独りごちた。


「おいおい、これはサボり放題だな……。
野良犬すら通りやしない」

自嘲混じりの声が、夜気にすっと溶けていった。
途端、周囲の静けさが際立ち、耳が妙に敏感になる。


その時だった。
どこからか、聞き慣れない小さな音がした。
パチン…という硬質な響き。
私は反射的に警備棒を握り直し、音のした方へ視線を向けた。
工事区画のマンホールの辺りだ。


そこには、不自然な違和感があった。
パイロンで囲まれたマンホールの蓋が、わずかに開いている。
その傍らに、人影がひとつ——。
私の心臓が、鼓膜の裏側で暴力的に脈打ち始めた。


時計を見る。
午前二時半。
こんな時間に、作業員がいるはずがない。
冷たい汗が額を流れ、制服の襟元がじっとりと肌に張り付く。


一瞬、酔っ払いか、あるいは夜遊びの若者がふざけているのかと思った。
しかし、どこか様子がおかしい。


私はゆっくりと歩を進めた。
足音がアスファルトに吸い込まれ、空気が重たく沈黙する。
マンホールの傍の人影は、半身を穴に沈め、じっと中を覗き込んでいる。
動かない。
まるで時間が止まったかのように。


赤い誘導棒の光が、一定のリズムで男の顔を照らす。
光に浮かび上がったその顔は、何かに取り憑かれたような薄ら笑いを浮かべていた。
だが、笑顔に生気はなく、口元だけが不自然に引き攣っている。
目は虚ろで、何か底知れぬ闇を湛えている。


私は息を飲んだ。
背筋に氷のようなものが這い上がり、手足の先が痺れる。


「なんなんだ……こいつは……」

唇が勝手に震え、声にならない呟きが漏れる。


その時、男がゆっくりと首をこちらに向けた。
ギギギ……と骨が軋むような錯覚すら覚えるほど、機械的な動きだった。
男の顔は歪み、目の焦点が定まらない。
だがその奥には、言い知れぬ憎悪が宿っていた。


私は一瞬で悟った。
この場所に留まってはいけない——。
本能の奥底、子供の頃に感じた夜の恐ろしさが、鮮明に蘇る。


汗が冷え、喉がからからに乾く。
体は硬直し、逃げ出したい衝動で足が震える。
その時——

大通りから、一台の車が偶然、裏道に入ってきた。
ヘッドライトが白い光の帯となって現場を横切り、辺りを一瞬だけ明るく照らす。


私は反射的にマンホールを見る。
男の姿はもうなかった。
開いたマンホールの蓋だけが、ぽっかりと闇に口を開けている。
まるで、何事もなかったかのように。


私は呆然と立ち尽くした。
心臓はまだ暴れ、呼吸が浅く速い。
指先は冷たく、握った警備棒が汗で滑る。


夜明けまで、私はマンホールから一瞬たりとも視線を外せなかった。
闇の底に何かが蠢いているようで、まぶたすら閉じるのが怖かった。


やがて、東の空がうっすらと白み始め、早番の同僚が交替にやってきた。
私は要点だけを伝え、二人でマンホールの中を点検した。
だが、底にはただどこまでも黒い下水が広がり、異常は何もなかった。


それ以来、私はマンホールという存在そのものに、妙な嫌悪感を覚えるようになった。
あの夜、私は何を見たのか。
あれは人間だったのか、それとも人間の皮を被った“何か”だったのか。


もし、あなたが深夜の裏道で、同じような人影を見かけたなら——どうか、ためらわずに逃げてほしい。
夜の闇は、ときに人の理解を超えたものを孕んでいるのだから。
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