夜の闇は、時に人を優しく包み、ときに底知れぬ不安を孕ませる。
その晩、僕は静けさを求めていた。
いつもの国道沿いの喧騒――絶えず行き交う車の光と音、喉元を過ぎるエンジンの唸り、怒鳴り声混じりの先輩たち。
そんな世界から一歩だけ外れた、細い裏道の現場が僕に巡ってきたのは、偶然だったのだろうか。
季節は初夏。
夜風がほのかに湿り気を帯びて、肌を撫でていく。
裏道は臨時の水道工事で封鎖され、車の通行はほとんどない。
住宅街の狭い交差点に立つと、家々の窓から洩れる灯りが、ゆっくりと一つ、また一つと消えていった。
僕はピカピカと赤く光る誘導棒を手にし、最寄りの公園のトイレと自販機の位置を心に刻む。
夜勤の孤独には、こうした些細な備えが不可欠だった。
交差点の角に立つと、四方の路地が見通せた。
遠くの民家から、犬の低い唸り声が微かに聴こえ、やがてそれも夜の静寂に溶けていく。
心地よい孤独。
雑音のない世界で、僕は自分の妄想に耽ることができた。
「うるさい先輩もいない。
今日は、サボり放題だな」
小さく呟くと、胸の奥が緩む。
最初の一時間、車は二台だけが通り過ぎた。
いずれも工事区域には興味を示さなかった。
飲み明けのサラリーマンが、千鳥足で家路につく。
その背中が見えなくなると、町は静謐に包まれた。
やがて、すべての家の灯りが消える。
街灯だけが淡く路面を照らし、世界は灰色の静寂に沈む。
空を見上げれば、雲間に歪な月が浮かんでいた。
そのときだった。
不意に、聞き慣れない物音が背後から忍び寄る。
金属音――パイロンが揺れる微かな音。
胸の奥に冷たいものが走り、僕はゆっくりと工事区域の方を振り返った。
マンホールの辺り、赤いパイロンに囲まれた場所に、人影があった。
膝を折り、半身を黒い穴に沈めるようにして、その影はじっと動かない。
時計を見る。
午前二時半。
――こんな時間に、作業員がいるはずがない。
酔っ払いか、夜の悪戯か。
それとも、もっと別の何かか。
僕は身構え、赤い誘導棒を握り直した。
恐る恐る近づく。
足音がやけに大きく響く。
汗ばむ手のひら。
マンホールの縁に腰をかけるようにして、男は穴の中を覗き込んでいた。
顔は街灯の陰、だが、時おり僕の誘導棒が律動的にその頬を照らす。
浮かび上がる顔は、歪んで、笑っているようにも見えた。
――なぜ、こんな夜更けに?
問いかけは喉元で凍りつく。
その男は、僕の存在に気づいているのか、いないのか。
まるで、世界のすべてがマンホールの奥にしか存在しないかのように、動かない。
どこかで風鈴の音が鳴った。
夜風が髪を揺らす。
僕は、誘導棒を男のほうへ向けて、一歩、また一歩と距離を詰める。
赤黒い光が、等間隔で男の顔を照らす。
そのたびに、網膜に焼きつく不気味な残像。
心の奥底で、名状しがたい恐怖が胎動する。
「……なんなんだ、こいつは」
不意に、男が首をゆっくりと回す。
その顔――焦点の合わない目、歪んだ口元。
生気のない皮膚。
笑っているのか、苦しんでいるのか、判然としない。
だが、確かに感じる。
――憎悪。
強烈な悪意が、矢のように僕の心臓を貫く。
息を呑み、僕は本能的に後ずさった。
逃げなければ、ここにいてはならない。
そのとき、遠くから車が入ってきた。
ヘッドライトが辺りを白く照らし出す。
一瞬の眩しさに目を細め、車が通り過ぎるのを待つ。
――男は消えていた。
マンホールの蓋は開いたまま、ただ黒い口をぽっかりと広げている。
そこには、もう何もいなかった。
人ではなかったのか――いや、そもそも、あれは「人」だったのか。
僕は夜明けまで、交差点に立ち尽くした。
マンホールから一度も目を離さなかった。
夜明けの光が、ゆっくりと町を包む。
東の空が白み始め、鳥の声が遠くから聴こえてくる。
早番の同僚がやってきて、僕と一緒にマンホールの中を覗いた。
そこには、ただ冷たい下水の闇が広がるばかりだった。
それ以来、僕はマンホールというものを直視できなくなった。
夜の裏道を歩くたび、あの男の影が、今もどこかでこちらを見ている気がしてならない。
もし、深夜の街角であの赤黒い顔に再び出会ったなら――
迷わず、逃げるべきだ。
仕事・学校の話:夜の裏路地、赤い光に浮かぶ男――ある警備員の記憶
夜の裏路地、赤い光に浮かぶ男――ある警備員の記憶
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