仕事・学校の話:夜の裏路地、赤い光に浮かぶ男――ある警備員の記憶

夜の裏路地、赤い光に浮かぶ男――ある警備員の記憶

📚 小説 に変換して表示中
夜の闇は、時に人を優しく包み、ときに底知れぬ不安を孕ませる。

 その晩、僕は静けさを求めていた。
いつもの国道沿いの喧騒――絶えず行き交う車の光と音、喉元を過ぎるエンジンの唸り、怒鳴り声混じりの先輩たち。
そんな世界から一歩だけ外れた、細い裏道の現場が僕に巡ってきたのは、偶然だったのだろうか。

 季節は初夏。
夜風がほのかに湿り気を帯びて、肌を撫でていく。
裏道は臨時の水道工事で封鎖され、車の通行はほとんどない。
住宅街の狭い交差点に立つと、家々の窓から洩れる灯りが、ゆっくりと一つ、また一つと消えていった。

 僕はピカピカと赤く光る誘導棒を手にし、最寄りの公園のトイレと自販機の位置を心に刻む。
夜勤の孤独には、こうした些細な備えが不可欠だった。

 交差点の角に立つと、四方の路地が見通せた。
遠くの民家から、犬の低い唸り声が微かに聴こえ、やがてそれも夜の静寂に溶けていく。
心地よい孤独。
雑音のない世界で、僕は自分の妄想に耽ることができた。

「うるさい先輩もいない。
今日は、サボり放題だな」

 小さく呟くと、胸の奥が緩む。
最初の一時間、車は二台だけが通り過ぎた。
いずれも工事区域には興味を示さなかった。
飲み明けのサラリーマンが、千鳥足で家路につく。
その背中が見えなくなると、町は静謐に包まれた。

 やがて、すべての家の灯りが消える。
街灯だけが淡く路面を照らし、世界は灰色の静寂に沈む。
空を見上げれば、雲間に歪な月が浮かんでいた。

 そのときだった。

 不意に、聞き慣れない物音が背後から忍び寄る。
金属音――パイロンが揺れる微かな音。
胸の奥に冷たいものが走り、僕はゆっくりと工事区域の方を振り返った。

 マンホールの辺り、赤いパイロンに囲まれた場所に、人影があった。

 膝を折り、半身を黒い穴に沈めるようにして、その影はじっと動かない。

 時計を見る。
午前二時半。
――こんな時間に、作業員がいるはずがない。

 酔っ払いか、夜の悪戯か。
それとも、もっと別の何かか。

 僕は身構え、赤い誘導棒を握り直した。

 恐る恐る近づく。
足音がやけに大きく響く。
汗ばむ手のひら。

 マンホールの縁に腰をかけるようにして、男は穴の中を覗き込んでいた。

 顔は街灯の陰、だが、時おり僕の誘導棒が律動的にその頬を照らす。
浮かび上がる顔は、歪んで、笑っているようにも見えた。

 ――なぜ、こんな夜更けに?
 問いかけは喉元で凍りつく。
その男は、僕の存在に気づいているのか、いないのか。
まるで、世界のすべてがマンホールの奥にしか存在しないかのように、動かない。

 どこかで風鈴の音が鳴った。
夜風が髪を揺らす。

 僕は、誘導棒を男のほうへ向けて、一歩、また一歩と距離を詰める。

 赤黒い光が、等間隔で男の顔を照らす。
そのたびに、網膜に焼きつく不気味な残像。

 心の奥底で、名状しがたい恐怖が胎動する。

「……なんなんだ、こいつは」

 不意に、男が首をゆっくりと回す。

 その顔――焦点の合わない目、歪んだ口元。
生気のない皮膚。

 笑っているのか、苦しんでいるのか、判然としない。

 だが、確かに感じる。

 ――憎悪。

 強烈な悪意が、矢のように僕の心臓を貫く。

 息を呑み、僕は本能的に後ずさった。

 逃げなければ、ここにいてはならない。

 そのとき、遠くから車が入ってきた。
ヘッドライトが辺りを白く照らし出す。

 一瞬の眩しさに目を細め、車が通り過ぎるのを待つ。

 ――男は消えていた。

 マンホールの蓋は開いたまま、ただ黒い口をぽっかりと広げている。

 そこには、もう何もいなかった。

 人ではなかったのか――いや、そもそも、あれは「人」だったのか。

 僕は夜明けまで、交差点に立ち尽くした。
マンホールから一度も目を離さなかった。

 夜明けの光が、ゆっくりと町を包む。
東の空が白み始め、鳥の声が遠くから聴こえてくる。

 早番の同僚がやってきて、僕と一緒にマンホールの中を覗いた。

 そこには、ただ冷たい下水の闇が広がるばかりだった。

 それ以来、僕はマンホールというものを直視できなくなった。

 夜の裏道を歩くたび、あの男の影が、今もどこかでこちらを見ている気がしてならない。

 もし、深夜の街角であの赤黒い顔に再び出会ったなら――
 迷わず、逃げるべきだ。
読了
スワイプして関連記事へ
0%
ホーム
更新順
ランダム
変換
音読
リスト
保存
続きを読む

コメント

まだコメントがありません。最初のコメントを投稿してみませんか?

記事要約(300文字)

ダミー1にテキストを変換しています...

0%
変換中