ショッピングセンターへの道のりは、いつもと変わらないはずの日常――けれど、あの日の空だけは、最初から異様な気配を孕んでいた。
午前と午後の境目が判然としない、重たく沈んだ曇天。
車のフロントガラスを打つ雨粒は細かく、だが絶え間なく、まるで世界の輪郭をぼやかすように視界を曇らせていた。
湿度が車内にまで染み入り、肌にまとわりつくような不快な熱気が呼吸を浅くさせる。
エアコンから流れる空気も、この日の空気の重さには歯が立たない。
車は、ゆるやかな坂道を下りながら、一角にぽつりと佇む古びた建物を横切る。
そこは、昭和の面影を色濃く残す鉄筋コンクリート造りの病院――無機質な灰色の壁面は、長年の風雨にさらされて黒ずみ、細かなひび割れが蜘蛛の巣のように走っている。
建物自体が道路より低い位置に沈み込んでおり、まるで地面に半ば飲み込まれたようだ。
道路からは、1階の上部と2階部分だけが見え、その間に挟まれた窓には、無骨な鉄格子が隙間なくはめ込まれている。
窓ガラスは曇り、内側からの光をほとんど逃さない。
唯一の色彩は、鉄格子の錆びが浮かび上がらせる鈍い赤褐色だけだった。
その日、空は昼間にもかかわらず、まるで夕暮れのような暗さ。
低く垂れ込めた雨雲が、空を圧し潰すように覆い尽くし、光の粒子さえどこかへ閉じ込めてしまったかのようだった。
雷鳴が遠くから近くへ、重低音で這い寄ってくる。
時折、稲妻が雲の裂け目を白く引き裂き、一瞬だけ周囲の景色を非現実的な青白さで染め上げる。
その瞬間だけ、病院の壁の皺や窓の格子が、まるで何かの意思を持ったかのように闇の中から浮かび上がるのだった。
車内には、父が運転席でハンドルを握る手の節々が白くなるほど力がこもり、母は沈黙の中でスーパーの買い物リストを何度も頭の中でなぞっているようだった。
自分の指先は、知らず知らずのうちに膝の上で強く握られていて、爪の先が手のひらに食い込んでいる。
その痛みが、現実感をかろうじて繋ぎ止めていた。
ショッピングセンターへ向かう道すがら、必ずこの病院の前を通る。
だが、今日ほどこの建物が不穏に見えた日はなかった。
雨の匂いにまじって、どこか金属が錆びたような、古いコンクリートの湿った匂いが鼻をつく。
車が病院の真横に差しかかったその時、不意に視界の端に微かな光が灯った。
2階の一室、鉄格子越しの小さな窓。
その奥に、ほの白い蛍光灯がぼんやりと揺れているのが見えた。
その瞬間、時間がスローモーションのように引き延ばされる。
次の稲妻が空を切り裂き、轟音が窓ガラスを震わせる。
光の閃きと同時に、細い身体をパジャマに包んだ男が、鉄格子の隙間から顔を突き出した。
彼の顔は青白く、目の奥に何か言い知れぬ恐怖が貼りついている。
唇は乾ききって引きつり、喉の奥から絞り出すような叫びが、雨音と雷鳴の合間を縫って響いた。
「助けてくれぇぇぇーーー!殺されるぅぅぅーーー!」
その声は、単なる叫びではなかった。
助けを求めるというよりも、世界そのものに向かって魂ごと叩きつけているような、絶望の塊だった。
車内の空気が一挙に凍りつく。
自分の全身の毛穴が総立ちになり、心臓が喉元まで跳ね上がる。
鼓動が耳の奥で、雷鳴と重なり合いながら、脈打つ。
喉がカラカラに渇き、舌先が歯に張り付くような感覚。
冷たい汗が背中を伝い、指先がわずかに震えているのがわかる。
父も母も、何も言わなかった。
ただ、車が病院から遠ざかるまで、誰も一言も発しなかった。
何をどう言葉にしていいかわからなかったし、あの絶叫を耳にした者は、もはや普通の会話に戻れるはずがなかった。
あの男の顔、声、窓の向こうにあった闇――それらは、まるで焼きついたフィルムのように、瞼の裏に残り続けた。
家に帰っても、その光景は頭からこびりついて離れなかった。
恐怖と混乱、そして言い知れぬ罪悪感が胸をかき乱す。
「あの人は本当に助けを求めていたのではないか」「何もできなかった自分は冷たいのではないか」――そんな葛藤が幾重にも心の中で渦巻く。
けれど、怖すぎて親には病院のことを尋ねる勇気が出なかった。
会話の途中であの光景が蘇りそうで、言葉を飲み込んでしまう。
夜、ベッドの上で目を閉じても、雨音に混じってあの叫びが蘇る。
心臓の鼓動が速くなり、眠りに落ちるまでに何度も汗ばんだ手を握りしめた。
翌日、どうしても気になって、スマホであの病院の名前を検索した。
公式サイトはないものの、口コミや地図情報、いくつかの画像が見つかった。
そこには、病棟案内の写真が載っていた。
――1F病棟(解放)、ミーティングルームあり
――2F病棟(閉鎖)
「閉鎖」という言葉が、画面の上で冷たく光る。
精神科病院であること、その構造、閉鎖病棟という存在。
初めて「そうだったのか」と腑に落ちる一方で、あの窓辺の男の絶叫の意味を理解してしまった気がして、背筋に再び冷たいものが走った。
「精神疾患の方を差別するつもりはないけれど」――そう自分に言い聞かせても、あの光景の本質的な恐ろしさは拭えなかった。
人間の心の奥底にある闇、社会から隔てられた場所、そして、助けを求めても届かない叫び声。
それらが、今も自分の記憶の底に沈み続けている。
あの病院の前を通るたび、雨の湿気、雷鳴、鉄格子の冷たい輝き、そしてあの絶叫が、何度でも自分の中で蘇る。
それは、決して日常に溶け込むことのない、真昼の悪夢の断片として、今も色褪せずに心の奥底に棲み続けている。
怖い話:雷鳴轟く灰色の昼、雨に沈む古い病院の窓から聞こえた絶叫――心に刻まれた真昼の悪夢の記憶
雷鳴轟く灰色の昼、雨に沈む古い病院の窓から聞こえた絶叫――心に刻まれた真昼の悪夢の記憶
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