その日、灰色の雲が空を覆い、世界は昼間にもかかわらず、まるで夕暮れの底に沈んだかのような暗さに包まれていた。
雨がフロントガラスを走り抜け、ワイパーの軋む音が、妙に耳につく。
私は母の運転する車の助手席で、ぼんやりと流れ行く景色を窓越しに眺めていた。
ショッピングセンターへ向かう道すがら、ふいに視線が吸い寄せられた。
道路のすぐ下、斜面に埋もれるようにして、古びたコンクリートの建物があった。
病院──昭和の記憶から取り残されたようなその姿は、雨に濡れ、ますます寂寥を帯びていた。
半地下構造のため、道路からは一階の上部と二階が見える。
窓には重い鉄格子がはめられ、内側の闇を守るかのようだった。
私は幼いころから、なぜかその建物に目を向けてしまう自分がいた。
けれど今日のような天気の日は、恐怖にも似た感情が、じわりと胸に広がる。
雷鳴がひときわ大きく轟いた。
空気が震え、肌にまとわりつく湿気がさらに重く感じられる。
ふと、車が病院の前を通り過ぎようとしたそのとき、私は見てしまった。
二階の窓──他の窓が曇りガラスのように沈黙しているなか、一つだけ灯りがともっていた。
ぼんやりとした電灯の下、窓辺に誰かの影が揺れる。
稲妻が闇を引き裂き、次の瞬間、その部屋の鉄格子の奥から、パジャマ姿の男が顔を押しつけるようにして現れた。
「助けてくれぇぇぇーーー! 殺されるぅぅぅーーー!」
叫び声は雨音と雷鳴にかき消されることなく、鋭く私の胸を貫いた。
凍りついた。
手のひらがじっとりと汗ばみ、喉がひどく渇く。
母は何も気づかなかったのか、車はそのまま走り去っていく。
私は後ろを振り返ることもできず、ただシートに身を沈めていた。
あの時の目、あの声──それらは、私の中に深い影となって残った。
夜になっても、雷の残響とともに、あの叫びが耳の奥でよみがえる。
私は眠れず、真っ暗な部屋の天井を見つめていた。
翌日。
どうしても、その病院の正体が知りたくなった。
けれど、親に尋ねる勇気はなかった。
どんな施設なのか、なぜあのような声が聞こえたのか、怖くて口にできない。
私はパソコンの画面を前に指を震わせながら、病院の名前を検索した。
――精神科病院。
そう表示された瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた気がした。
「ああ、そうだったんだ……」安心と戸惑いが、複雑に絡み合ったまま、私は画面を見つめ続けていた。
病院の案内ページには、こう書かれていた。
――一階病棟(開放)、ミーティングルームあり
――二階病棟(閉鎖)
閉鎖、という言葉がやけに重く響く。
鉄格子の意味が、ようやく腑に落ちた。
私は、精神疾患の人々を差別する気持ちなどなかった。
ただ、あの雷雨の午後、稲妻に照らされた鉄格子越しの男の叫びは、現実と非現実の境をぼやかし、私の心に深い爪痕を残したのだった。
それからも私は、ときおりあの病院の前を通るたび、過去の記憶がよみがえるのを感じていた。
雷鳴が遠くで響くとき、私は今も、あの叫びが再び聞こえてくるのではないかと、密かに身をすくめてしまうのだった。
怖い話:闇に沈む病院──雷雨の午後、鉄格子の窓から聞こえた声
闇に沈む病院──雷雨の午後、鉄格子の窓から聞こえた声
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