夜の底で目覚めると、世界はまだ暗く、空気は冷たかった。
私は九歳か十歳の頃だったと思う。
両親は毎夜、声を荒らげて争い、テレビの明かりも心の灯りも家にはなかった。
私は布団の中で、眠るふりをしていた。
怒号の残響が壁を震わせ、夢と現実の境界はぼやけていた。
ある夜、何に導かれるでもなく、私は家を抜け出していた。
濡れた土の匂い、まだ夜明け前の冷たい空気が頬を撫でる。
足元に絡まる草の感触。
気づけば、私は見知らぬ森の奥を歩いていた。
森は深い緑に満ち、朝露をまとった葉がわずかに光を反射していた。
その森は、どこか南国のジャングルのようだった。
耳を澄ませば、小鳥の囀りと遠くで動物の気配が交じる。
私はただ歩き続けた。
やがて、森の中で一人の老婆に出会った。
彼女は皺だらけの手で私を招き、古びた小屋へと導いた。
小さな集落。
そこには電気もなく、子どもたちが五人、裸足で駆け回っていた。
老婆は片言の日本語を話した。
その響きは不思議と懐かしく、心に染みた。
私は三日ほど、その村で過ごした。
薪の匂い、囲炉裏の熱、素朴な料理の味。
家族と呼べるものを初めて知ったような気がした。
けれど、子どもたちに外へ呼ばれ、戸口をくぐった瞬間、私は元の世界に戻っていた。
夜の玄関先。
母が「何やってるの!」と叫んだ。
私の服は泥と葉で汚れていたが、時間はほとんど進んでいなかった。
あれは夢だったのか。
腕に残る植物のツルの傷と、心の温もりだけが現実だった。
その後、両親は離婚し、私は母の実家で暮らした。
十余年が過ぎて、あの森の記憶は、熱に浮かされた夜の夢のように遠ざかっていった。
*
私は二十三歳で東京に出た。
闇雲に働き、疲れ果て、心は擦り切れていた。
責任ある立場を押し付けられ、薄給に喘ぎ、先輩に金をせびられ、裏社会と接点を持つようになっていた。
休日、やりきれなさに耐えかねて、飲めない酒をあおった。
その夜、私は再びあの森にいた。
「ここだ……」
森の冷気が肌に刺さる。
足元に絡まる蔓の感触。
ふいに、若い女性が現れた。
彼女は片言の日本語で私を村へと導いた。
不思議な既視感。
そこはかつて過ごした集落だった。
私は何もかもどうでもいい、と思っていた。
彼女の家で眠り、彼女の過去を聞いた。
両親は早くに亡くなり、近隣の人々に育てられたという。
私は彼女に惹かれ、村の生活に溶け込んだ。
薪割りの音、子どもたちの笑い声、土の匂い。
生きている実感が胸を満たした。
三ヶ月、私はその村で暮らした。
やがて、突然、私は現実へと引き戻された。
元の世界の時計は、ほとんど進んでいなかった。
私は、二度と彼女には会えないと知った夜、声を殺して泣いた。
*
時は流れた。
三十六歳になり、私は家庭を得たが、満たされることはなかった。
地方に逃げ、堅実に働いたが、妻は浮気し、家を空ける日が多かった。
離婚は悪意に満ち、私は寒々しい部屋で、虚無と向き合った。
あの村に還りたい。
そう願った夜、会社の帰り道、気づけば私はまた森を彷徨っていた。
集落にたどり着き、彼女の家を訪ねると、小さな少女がいた。
薄暗い小屋の中、少女は怯えた目で私を見つめていた。
「父は死んだ。
母も病気で寝ている」と、片言の日本語で彼女は言った。
私は「迷い込んだだけだ」と村人たちに伝え、長老の家に泊めてもらった。
少女の母親が亡くなった後、私は少女の面倒を見た。
時折、少女の瞳がかつての彼女や、最初に会った老婆の面影と重なり、私は戦慄した。
少女はやがて成長し、私は彼女に寄り添った。
しかし三年目の春、私は忽然と現実世界へと引き戻されたのだ。
会社の無断欠勤を叱られ、病院へ行くよう命じられた。
現実の私は、三年前よりも白髪が増え、日焼けし、皺が深く刻まれていた。
「ストレスのせいだ」と周囲は言ったが、私はもう、あの世界に帰れないのだと悟った。
それでも、夢だったのかもしれないと思う夜がある。
だが、腕に残る傷跡や、心に残る温もりが、あの世界の現実をそっと囁く。
もう二度と、あの村に行くことはないだろう。
だが、ひとつだけ、奇妙な考えが頭を離れない。
最初に出会った老婆が、「つい最近、夫が亡くなった」と言っていた。
その夫は、もしかしたら未来の私だったのではないか――。
もしそうなら、私はいつか、あの世界に永遠に還るのだろうか。
運命が微笑むことはないかもしれないが、私は今日も、諦めきれない妄想を胸に生きている。
不思議な話:森の涯て、時の狭間で――三度の異世界行きについての断章
森の涯て、時の狭間で――三度の異世界行きについての断章
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