感動する話:母と娘、すれ違いと赦しの歳月──光と影が交錯する人生の断章

母と娘、すれ違いと赦しの歳月──光と影が交錯する人生の断章

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「天国に、どんなシーンを持って行きたい?」

高校生のとき、湿った夏の夕暮れ、窓の外で蝉が最後の力を振り絞って鳴く中、私は何気なく母にそう尋ねた。
畳の上に射し込む橙色の斜陽が、私たちの影を長く伸ばしていた。
母は茶碗を洗う手を一瞬だけ止めた。
水道の蛇口から滴る水音が静寂に溶ける。

「アンタが生まれた瞬間かな」

母は、いつものように飾らず、しかし少しだけ声を震わせて答えた。
その声が台所の薄暗がりに響く。
私の胸の奥で何かが小さく震えた。

思えば、私たちの家は決して裕福ではなかった。
畳の縁にはすり減った跡が走り、冬は隙間風が家中を駆け抜ける。
冷蔵庫の中身が寂しい日も珍しくなかった。
けれど、母はいつも清潔な制服を用意し、私のために温かな朝ごはんを作ってくれた。

男の子が苦手な私のため、身分不相応だと周囲に囁かれながらも、母は高い学費をやりくりして私立の女子校に通わせてくれた。
新しい制服の生地は固く、胸元のリボンが少し息苦しかった。
通学路の桜並木を歩く私の背中を、母は遠くから見送っていた。
その視線の温度を、私は当時知る由もなかった。

成績が悪く、しょっちゅう先生に呼び出される私のために、母は何度も学校に足を運んだ。
職員室の前でそわそわと待つ母の背中。
廊下に響く教師の低い声と、母の小さなため息。
母は帰り道、私を責めることはなかった。
ただ、いつもより口数が少なく、指先で袖口をもてあそんでいた。

受験のない私立校なのに、母は私を塾に通わせてくれた。
教室の蛍光灯の冷たい光、鉛筆の芯の匂い。
私はいつも眠気と退屈を感じていたけれど、母は夜遅くまで私の帰りを待ち、湯気の立つ味噌汁を用意してくれていた。

家計に余裕がないのは知っていたはずなのに、私はその現実から目を背け、何度も母に反抗した。
冷たい言葉や、無言の壁を作った夜。
母が台所で顔を伏せてすすり泣く声を、布団の中で聞かないふりをした。

たくさんの心配をかけ、母を何度も怒らせ、泣かせた。
そのたびに、母の肩が小さく震えていたのを私は覚えている。
けれど、私は素直になれなかった。

それでも、母は私の背中を押し続けてくれた。
幼いころから憧れていた幼稚園の先生になる夢も、母の支えがあってこそ叶えることができた。
卒業式の日、母は小さな花束を抱えて、私よりもずっと嬉しそうに笑っていた。
その笑顔の皺の奥に、幾度となく流した涙の痕が刻まれていた。

ようやく、少しばかり家計を支えることができるようになった私。
それは母にとって、どれほど小さな安堵だっただろう。

だが、人生はいつも思い通りにはいかない。
計画性もなく妊娠したことを母に打ち明けた夜。
湿った春の雨が窓を叩いていた。
年下の彼氏は「堕ろしてほしい」と冷たく言った。
私は自分の中で渦巻く不安と、言いようのない孤独に押し潰されそうになった。

「産みたいけど、一人じゃ無理…」

私は、泣きながら母に訴えた。
母は最初、激しい怒りをあらわにした。
食卓の上の湯呑が震え、母の頬が紅潮していた。
しかし、私の涙が畳に落ちる音を聞いた瞬間、母の表情は崩れ、声も震え、やがて嗚咽が混じった。

「私に、まだ子宮があれば…代わりに産んであげたのに」

母はかつて、子宮筋腫で子宮を摘出していた。
その事実を思い出した瞬間、私の胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
母の目に浮かぶ涙は、深い喪失と、私を思う愛情の複雑な色を帯びていた。

その後、私は自分のわずかな貯金と、母がいつの間にか貯めてくれていた封筒のお金で、見知らぬ街へ引っ越した。
新しい部屋はまだ段ボールが山積みで、窓から差し込む朝陽が埃の粒をきらきらと照らしていた。
出産に備え、母と二人で家具を選び、カーテンを吊るした。
母の手のひらの温もりが、私の不安を包み込んだ。

彼氏も時間をかけて説得し、今ではお腹の子に毎日語りかけている。
胎動を感じるたび、母の手がそっとお腹に添えられる。
その手のひらは、かつて私が幼かった頃、熱を出した夜に額に触れてくれた時の温度と同じだった。

24歳になっても、私は母に心配と迷惑をかけ続けている。
妊娠経過は決して順調ではなく、何度も病院に通い、そのたびに母がそばにいてくれた。
待合室の白いベンチで、母の手を握ると、自分がまだ子どものままなのだと痛感する。

それでも母は、私の決意を尊重し、静かに支えてくれる。
深夜、私が不安で眠れない時、母は隣の部屋から小さな音でラジオを流しながら、私の好きなハーブティーを入れてくれた。
その香りは心を落ち着かせ、母の静かな愛情の証だった。

私はまだ未熟な大人だけれど、母のような深くてあたたかい愛情を、これから生まれてくる娘にも伝えていきたい。
母から受け継いだ「強さ」と「優しさ」を、今度は私が娘へとつなげていく番だと感じている。

もうすぐママになる私から、もうすぐバーバになる母へ。

この世界で一番尊敬している、かけがえのない母へ。

「ありがとう、そして、いつもごめんね」

母の歩んできた数々の夜明けと黄昏の色、支えてくれた手の温度、何度も流してくれた涙の味──そのすべてに、心からの感謝を込めて。
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