感動する話:天国に持ち帰る光――母と私、二人だけの物語

天国に持ち帰る光――母と私、二人だけの物語

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あの日、窓の向こうに薄く霞む春の光が、部屋の埃をきらきらと照らしていた。
高校三年の終わり、私はふいに、母に問いかけたのだった。

「天国に、どんなシーンを持って行きたい?」

 母は洗い立てのシャツを畳みながら、私の方を見もせず、即座に答えた。

「アンタが生まれた瞬間かな」

 その声は、柔らかな毛布のように、私の胸の中に降りてきた。
私は、なぜだか少しむず痒くなり、視線を床に落とした。
外では、まだ幼い桜の木が、冷たい風にわずかに揺れていた。

 家は決して裕福ではなかった。
冬になれば、隙間風の音が夜の静寂に混じり、夏には扇風機の羽音が安いアパートの壁に反響した。
それでも母は、男の子に怯えがちな私のために、身分不相応な私立の女子校へと背伸びをして通わせてくれた。

 私は勉強が得意ではなかった。
通知表が配られるたび、母は学校に呼び出された。
帰宅後、母の手はいつも冷たかった。
けれども、叱るよりも先に、力なく私の頭を撫でた。
夜、布団の中でその手の感触を思い出すと、理由もなく泣きたくなった。

 受験もないのに、私は塾にも通った。
家計は苦しかった。
母は昼はスーパー、夜は内職。
私はそのことを知りながら、思春期の苛立ちをぶつけてばかりいた。

 母は、私のためにどれほどの涙を流しただろう。
私はそのたびに、心のどこかで後悔の爪痕を感じていた。

 それでも、私は夢だった幼稚園の先生になることが叶った。
ようやく、自分の稼ぎで家にお金を入れられるようになった。
母の皺の増えた手を見て、遅すぎる感謝が胸を締めつけた。

 けれど、人生は思い通りには進まなかった。
計画もなく、妊娠がわかったのは、春の雨が止みかけた午後だった。
年下の彼は、戸惑いのあまり「堕ろしてほしい」と言った。
私は、その言葉の冷たさに膝が震えた。

「産みたい。
でも、一人じゃ無理だよ……」

 私は母に泣きながら訴えた。
母は、最初は烈火のごとく叱責した。
けれど、私の涙が枯れるほど流れた時、母もまた、そっと泣き崩れた。

「私にまだ子宮があったら、代わりに産んであげたのにね……」

 母は数年前、病で子宮を摘出していた。
その事実が、今は鋭い棘のように胸に刺さった。

 私は、自分のわずかな貯金と、母が密かに積み立ててくれていたお金で、知らない町へ引っ越した。
新しい部屋の窓からは、夕暮れの光が畳に長く伸びていた。
彼も、少しずつ現実を受け入れ始め、お腹に向かって毎日話しかけてくれるようになった。

 それでも、二十四歳になっても、私は母に心配と迷惑ばかりかけている。
妊娠の経過は順調とは言えず、母はしばしば遠い町まで世話に来てくれた。
母はもう、私の決意を責めなかった。
ただ静かに、そばにいてくれた。

 私はまだ、未熟な大人だ。
母のような強さも、優しさも、到底持ち合わせていない。
それでも、母から受け継いだ愛情を、これから生まれてくる娘に伝えたいと願っている。

 もうすぐ、私は母になる。
母は、バーバになる。
窓辺のカーテンが、微かな春風に揺れている。

 この気持ちを、どう言葉にすればいいのだろう。
感謝と後悔と、愛情と、赦しと。
幾重にも絡まる感情が、胸の奥で静かに波立っている。

 ありがとう、そして、ごめんなさい。
私が世界で一番、尊敬している母へ。
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