午前八時のオフィス。
まだ陽が差し込みきらない窓際から、薄い青白い光がオープンスペースへゆっくりと流れ込んでくる。
IT系ベンチャー企業のフロアは、始業前の静けさに満ちていた。
壁に立てかけられたホワイトボードの端には、昨夜遅くまで残っていた誰かの走り書きが、乾いたインクの匂いとともに残滓のように漂っている。
その日、最初にコピー室のドアを押し開けたのは、入社三年目の女性社員・佐藤だった。
朝のひんやりとした空気の中に、わずかに機械油と紙の混ざった匂いが立ち込める。
彼女は眠気を払いながら、壁際の大きなコピー機へと歩み寄る。
蛍光灯の青白い光が、機械の表面を硬質に照らし、床には微かな紙くずが散っていた。
普段は無造作に置かれたトレイの上に、今日は何やら異質な存在感を放つ紙束があった。
彼女は何気なく一枚目を手にとる。
黒一色の紙面が、まるで深い夜の闇を切り取ったかのように無言でただそこに在る。
「何これ……?」
佐藤の声が、朝の静寂を微かに震わせる。
二枚目をめくると、淡い影が浮かび上がっていた。
光と影の輪郭は曖昧で、何かのフォルムが、ぼんやりと紙面に潜んでいる。
彼女の指先に、冷たい紙の感触が伝う。
そのとき、他の女性社員たちが次々とコピー室に入ってきた。
仲間のひとりが三枚目を見つけ、思わず声を上げる。
「ちょっと、これ、もしかして……」
四枚目。
そこには、あまりにも鮮明な画像が現れていた。
紙面の上に、くっきりと男性の局部が映し出されている。
機械が忠実に再現したその質感、光沢、陰影。
室内の空気が一瞬で凍りつく。
誰もが息を呑み、目を見開く。
沈黙が張り詰め、蛍光灯の微かな唸りだけが響いた。
女性たちの間に走る静かな動揺と、笑いを堪えるような、しかしどこか不安げな表情。
呼吸が浅くなり、肌の上を冷たい汗が伝う。
「これ、誰……?」
噂は瞬く間にフロアを駆け巡った。
自由な雰囲気で知られるこのベンチャー企業では、社員たちの出社・退社時間はバラバラだ。
その中でも、ひときわ異彩を放つのが、今回の“事件”の主である男性社員・田中だった。
彼は毎日夕方に現れ、夜の静寂に包まれたオフィスで淡々と作業し、深夜明け方に帰っていく生活を送っていた。
田中の存在は、どこか“夜”そのものだった。
彼が歩くたび、床に落ちる足音は他の誰よりも静かで、闇に同化するような不思議な気配を纏っていた。
彼のパーカーのフード、ジーンズの色褪せ、時に油染みのついたスニーカー。
それら全てが、夜のオフィスに馴染んでいた。
ある晩、仕事に行き詰まり、ふとした衝動が田中を突き動かした。
誰もいないコピー室。
壁の時計が午前二時を指し、外からは時折、遠くの車のエンジン音が微かに響いてくる。
蛍光灯の光が、静止した空気の中でじわじわと広がり、田中の心臓が鼓動に合わせて速く、重く打ち続ける。
「誰も、見ていない……」
そんな無意識の声が頭の奥で囁く。
ズボンの生地を指先でつまみ、ゆっくりと腰まで下ろす。
ついでシャツの裾を持ち上げ、ためらいがちにコピー機のガラス面に足をかける。
その瞬間、冷たいガラスの感触が肌に突き刺さり、田中は思わず息を呑む。
ガラス越しに伝わる体温、機械本体の微かな振動、紙がセットされる音。
周囲には、ただ自分の呼吸音だけが響いていた。
濃さを調整するダイヤルを何度も回し、最適な設定を模索する。
最初は真っ黒、次は影、さらにもう一枚。
紙が一枚ずつ排出されるたび、不安と高揚がないまぜになった奇妙な感情が田中の胸を満たす。
彼はどこか現実感を失い、機械のモーター音に自分の心臓の鼓動を重ね合わせていた。
やがて、実に鮮明な一枚が出力される。
田中は一瞬、その紙を手に取ろうとしたが、急な物音に気を取られ、そのままコピー室を後にしてしまう。
誰にも見られていないはずの夜の出来事が、翌朝、最も多くの人の目に晒されるとは夢にも思わなかった。
犯人探しは、思いのほか早く終息した。
服装の特徴、出社時間、オフィス内での立ち振る舞い。
田中の周囲の男性社員たちは、彼の普段の様子や、時折見せる気まずげな仕草から、徐々に真実に迫っていく。
問い詰められた田中は、最初こそしらを切ったが、次第に顔を赤らめ、視線を落とし、最後には小さくうなずいた。
「……ごめん」
その一言の中に、羞恥、後悔、どこか滑稽さまでもが滲んでいた。
社員たちの間には、緊張感と同時に、奇妙な連帯感めいたものが生まれる。
夜中、ズボンを下ろし、コピー機にまたがる男の姿を想像すると、どうしても笑いがこみあげてしまう。
しかし、その一方で、どこか背筋がひやりとするような不気味さも拭いきれない。
日常の裏側に潜む衝動。
光と影が交錯するオフィスの一隅で、忘れ去られた“闇”が、朝の光の中に暴かれた瞬間だった。
そして数日が経った今も、社員たちは時折、コピー室の前で足を止め、あの日の事件を思い出す。
蛍光灯の下、紙の束の白さと、あの忘れがたい黒い影。
その残像は、静かにオフィスの空気に溶け込み、誰の記憶の中にも、奇妙なざわめきとともに残り続けている。
仕事・学校の話:夜明けのコピー室で—闇に浮かぶ“忘れ物”と、ベンチャー企業に走る衝撃の波紋
夜明けのコピー室で—闇に浮かぶ“忘れ物”と、ベンチャー企業に走る衝撃の波紋
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