夜の街は、夏の終わりの湿った空気をゆっくりと飲み込んでいく。
ビルの谷間に生まれた小さな会社、ガラス張りのエントランスには誰もいない。
時計の針は午前二時を過ぎていた。
谷口誠一は、静まり返ったフロアの片隅で、ひとり悪戯な衝動に身を委ねていた。
蛍光灯の冷たい光が、彼の影を床に長く伸ばす。
彼の手は震えていた。
緊張と、どこかしらの高揚。
まるで子どものような無邪気さと、取り返しのつかない愚かさとが、彼の内側でせめぎ合っていた。
「一度だけ、やってみたかったんだ」
そんな心の声が、静けさのなかに響いていた。
ズボンを下ろす。
冷たいコピー機のガラスに、肌が触れる。
彼はそっと目を閉じ、機械のパネルに指を這わせた。
ボタンを押す。
モーター音が、静かなフロアに小さく唸りを上げる。
一枚目。
真っ黒な闇だけが紙に宿る。
二枚目。
ぼんやりとした影が浮かび上がる。
三枚目。
形が、輪郭を持ち始める。
四枚目。
そこには、あまりにも鮮明な像が、白い紙の上で凍りついていた。
彼は、慌ただしくズボンを引き上げ、足早にその場を離れる。
それ以上、何も考えたくなかった。
ただ、夜の闇がすべてを隠してくれると信じたかった。
*
朝。
東の空が白み始め、窓の外では街の喧噪がゆっくりと動き出す。
会社のフロアには、まだ仄暗い朝の気配が漂っていた。
最初にコピー機に気づいたのは、経理の佐藤だった。
彼女はコーヒーの香りを身にまといながら、何気なくトレイに手を伸ばす。
そこにあった四枚の紙。
「あれ、これ……?」
彼女の声は、すぐに他の女性社員たちを呼び寄せた。
紙を一枚ずつめくるたびに、空気が変わっていく。
最初はただの失敗コピーかと思われたそれが、三枚目で違和感となり、四枚目で確信に変わる。
「……まさか」
「ちょっと、これって……」
誰かが小さく息を呑んだ。
朝靄のような沈黙が、フロアを満たす。
その場にいた誰もが、コピーされたものの正体に気づいていた。
*
数時間後、噂は社内を駆け巡った。
ベンチャー特有の自由な空気の中で、午後にはもう、男性社員たちの間で「犯人探し」が始まっていた。
「昨日、夜中に残ってたのは……」
「服装、見覚えあるぞ」
名指しされた谷口は、最初こそ言い逃れようとしたが、やがて小さくため息をついた。
彼の顔には、どこか諦めにも似た微笑みが浮かんでいた。
「……ばかだな、俺は」
その声には、何かを許してほしいという切実な願いと、どうしようもない滑稽さとが同居していた。
*
夜中の出来事を想像すると、笑いが込み上げてくる。
ズボンを下ろし、真剣な顔つきで「濃さ」を調整する男――その滑稽な姿が、まるで小さな罪の儀式のように思えた。
けれど、どこか背筋に冷たいものが這い上がるのも事実だった。
人はなぜ、孤独な夜に衝動を抑えきれなくなるのだろう。
朝の光が、全てを白日の下にさらした。
罪の形は紙の上に残り、やがて小さな笑い話として消えていく。
けれど谷口の胸には、夜の残響だけが、いつまでも静かに残っていた。
仕事・学校の話:深夜の残響――或るベンチャー企業におけるささやかな事件
深夜の残響――或るベンチャー企業におけるささやかな事件
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