夜の帳がゆっくりと落ち始めた頃、私の家は普段よりもわずかにざわめいていた。
リビングのガラス窓越しに射し込む夕陽は、壁にオレンジ色の帯を描き、そこで影絵のように集う子ども会役員たちの姿が揺れている。
私は子ども会の役員という責任を背負っている自覚から、少し背筋を伸ばして、彼女たちを自宅に招いた。
今日は、会の運営に関するちょっとした事務作業をこなすための集まりだった。
玄関のたたきに並ぶ7足の靴。
異なる色と形が、その人の個性を密やかに語っている。
空気には、微かにコーヒーとクッキーの甘い香りが混じり、台所からはお湯の沸騰する細やかな音が聞こえる。
私の心は、緊張と安堵が交錯していた。
名ばかりの平穏の中に、ひとつだけ、黒い染みのような不安がはり付いている。
あの人――手癖が悪いと噂されるaさんも、今日の集まりに加わっていたのだ。
けれど、私は「まさか我が家でそんなことはないだろう」と、どこか油断していた。
彼女の表情は他の役員たちと変わらず、にこやかに談笑し、ときおり遠慮がちに笑みを漏らす。
彼女の瞳の奥に、何が潜んでいるのか、私は深く立ち入ろうとしなかった。
作業がひと段落し、皆がそれぞれの時間へと帰っていく。
ドアが閉まるたび、玄関の薄明かりが一瞬だけリビングに漏れ、静けさがその隙間を埋めていく。
私は見送るたびに、胸の奥で何かがざらつくような感覚を覚えたが、それが何なのかは分からなかった。
人数分の空気が一気に抜けていった後、自宅は不自然なまでに静かだった。
冷たい床の感触、壁時計の秒針の音がやけに大きく響く。
私は何気なくキッチンカウンターに目をやった。
そこに、あるはずの人形がないことに気づくまで、ほんの一拍の間を要した。
それは、ウィスキー瓶を利用して作られた黒人人形だった。
艶やかな黒い肌色に、カラフルな布が巻き付けられていた。
大きな目、にやけた唇、手作りならではの歪なバランス。
もとはと言えば、夫が一人暮らしを始める際に義母から「無理やり」押し付けられた曰く付きの品物だ。
私たちが結婚する時、処分したはずだった。
しかし、引越しの段ボールを開けると、またしてもその人形が現れた。
「呪いの人形」。
我が家では半ば冗談、半ば本気でそう呼んでいた。
その存在自体が、家族の間に奇妙な緊張感をもたらしていた。
人形が消えた。
頭の中が一瞬真っ白になる。
自分の記憶を探るように、今朝からの動線を反芻する。
誰かが持ち去った? それとも、まるで都市伝説のように、自分からどこかへ歩いていったのか――。
私の脳裏には、aさんの姿が浮かぶ。
だが、証拠があるわけではない。
私は唇を噛みしめ、胸の奥に冷たいものが流れ込んでくるのを感じた。
夫が仕事から帰宅し、消えた人形の話をすると、彼は眉間に皺を寄せ、低い声で言った。
「もし警察沙汰になって、あの人形が戻ってきたらどうするんだ!」彼の声には、恐怖と嫌悪と、どうしようもない諦めが入り混じっていた。
私はその言葉に、今後はaさんを家に招くまいと決意する。
彼女の手癖の悪さは、噂だけではなかったのかもしれない。
だが、私の中には不思議なほどの諦念と、どこか可笑しみすら感じる余裕が同時に生まれていた。
「どうせなら、あのオカンアートの軍手ピエロも、オーストラリア土産のコアラのクリップも持っていってくれればよかったのに……」。
私はそう思いながら、残された奇妙なオブジェたちを見つめる。
夜が深くなるにつれ、夫は祝杯をあげて酔い始め、やがてソファで眠りこけた。
私は彼を寝床へと運びながら、家の空気が微かに重く、湿り気を帯びていることに気づいた。
どこかで、見えないものがこちらを窺っているような、不気味な余韻が漂っていた。
――
日が変わり、数日が経過した。
事件は思わぬ形で再び動き出す。
晴れた午後、bさんがaさん宅の前を通りかかった。
玄関先で何気ない立ち話が始まる。
初夏の風が、廊下に置かれたゴミ袋を微かに揺らした。
その中に、bさんは見覚えのある異様な色彩を見つける。
黒と赤、黄色が混じる独特の配色。
目の端がぴくりと動き、思わず立ち止まる。
「あの人形って……(私)さんの家のやつじゃないの!?」。
声には驚きと怒りが混じり、沈黙が一気に張り詰める。
aさんは一瞬、表情を凍らせた。
次の瞬間、彼女の顔から血の気が引き、膝を崩し泣き出した。
涙はぽろぽろと床に落ち、肩は小刻みに震えている。
bさんは眉をひそめ、「どうしてこんなことをしたの!」と、低く、しかしどこか優しさを含んだ声で詰問する。
aさんは「欲しくないのに手が動くんです……」と、しゃくり上げながら白状した。
彼女の告白は、単なる言い訳ではなく、苦しみの深みから搾り出されたものだった。
盗んだのがあの黒人人形であるがゆえに、その言葉に妙な説得力があった。
bさんは、泣き崩れる彼女を半ば引きずるようにして、私の家へとやってきた。
玄関のチャイムが鳴る。
ドアを開けると、そこには、私の家から消えたあの黒人人形が、まるで何事もなかったかのような顔で戻っていた。
カウンターの上に置かれた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
人形のガラスの表面は、どこか冷たく、光を鈍く反射している。
部屋の空気が再び重く沈む。
aさんは、涙で濡れた頬をぬぐいながら、深々と頭を下げて謝罪した。
bさんは、厳しい口調で彼女を諭す。
その場の緊張と重苦しさは、皮膚の上にぴたりと張り付くようだった。
私は「お詫びにこれも引き取ってくれませんか? ついでにピエロも」と喉元まで出かかった言葉を、必死に飲み込んだ。
問題は人形だけではない。
aさんの「病的な衝動」こそが、真に向き合うべきものだった。
私は、今後の対応について、aさんの夫と話し合うことにした。
条件は、心療内科への通院。
その場で警察沙汰にしないことを約束する代わりに、彼女がその衝動と向き合い、治療の道筋をたどることを望んだ。
私はその決断に、胸の奥で微かな安堵と、やり場のない疲労感を感じた。
ちなみに、コアラのクリップが一匹減っていたことには、この時点では気付かなかった。
aさんが人形をゴミ袋に入れていたのは、「不燃ゴミの日に瓶ゴミと一緒に捨てるつもりだった」とのことだった。
その言葉を聞いたとき、不思議な絶望感と、奇妙な可笑しさが同時に胸をよぎった。
夕暮れどき、夫が帰宅した。
玄関に入るや否や、カウンターの上に鎮座している黒人人形に気づく。
彼は一瞬で顔を青ざめさせ、目を見開き、「くわっ」と奇妙な声をあげた。
彼の身体は一瞬硬直し、その後、現実逃避するかのようにやけ酒を始めた。
私は黙って油揚げを焼き、キッチンに立つ。
部屋には、醤油が焦げる香ばしい匂いが漂い、どこか現実に引き戻されるような安堵感が広がる。
だが、結局――盗まれても、戻ってきてしまう黒人人形。
哀しみでもなく、怒りでもなく、ただただ底知れぬ恐怖と、日常の不思議さがじわりと心に染み入る。
闇に消え、再び現れた「呪いの人形」は、私たち家族と、この家の歴史の一部として、静かにそこに座り続けている。
泥棒に盗まれても戻ってくる黒人人形。
私の心のどこかで、その存在が、これからも静かに不気味な余韻を残し続けるのだった。
怖い話:闇に消えた黒人人形と、子ども会役員の静かな恐怖と余韻――家庭に忍び込む違和感の夜
闇に消えた黒人人形と、子ども会役員の静かな恐怖と余韻――家庭に忍び込む違和感の夜
🔬 超詳細 に変換して表示中
読了
スワイプして関連記事へ
0%
記事要約(300文字)
ダミー1にテキストを変換しています...
0%
変換中
コメント