怖い話:黒い人形が還る夜――ある子ども会役員の記憶

黒い人形が還る夜――ある子ども会役員の記憶

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あの夜のことを、私は今もときどき思い出す。
六月の雨上がり、窓の外には街灯の光に濡れたアスファルトが鈍く光り、遠くで犬の鳴き声が微かに響いていた。

 私は子ども会の役員をしている。
仕事も家庭も、日々の雑事に押し流されながら、それでもこの町の子どもたちのために何か役に立てればと、小さな善意の灯を胸に抱いていた。
あの日、私は七人の仲間を自宅に招いた。
窓辺にはまだ雨粒が残り、キッチンには取り散らかった紙や文房具の匂いがこもっていた。
食器の触れ合う音、笑い声、遠慮がちに交わされる会話――どこにでもある、ささやかな集まりだった。

 その中に、aさんがいた。
手癖が悪いという噂は、私の耳にも届いていた。
だが、そんなことを信じて心を曇らせるのは、大人として恥ずかしいような気もした。
私は無意識に、他人の善意を信じたいと願っていたのだ。

 会が終わり、皆が帰ったあと、家の中はしんと静まり返った。
夫がキッチンでグラスを片付けているとき、ふと、違和感が胸をよぎった。
――あの人形がない。
キッチンカウンターの隅、いつもなら無造作にそこに置かれているはずの黒い人形が、忽然と姿を消していた。

 それはウィスキー瓶で作られた、黒人の人形だった。
義母が夫の一人暮らしの門出に、無理やり押し付けてきた曰く付きの品。
結婚したとき、私はそれを捨てたはずだった。
だが、段ボールの底からひょっこりと再び現れ、以来、我が家では「呪いの人形」と呼ばれている。
滑稽なほど濃い色彩、やけに大きな白い目――存在そのものが、どこかこの世のものではないような異物感をまとっていた。

 盗まれたのか、それとも人形が自ら歩いて出ていったのか。
私はしばし呆然と立ち尽くした。
夫は「警察に知らせて戻ったらどうする!」と、冗談めかして言ったが、その声の奥にわずかな苛立ちが混じっていた。
私は静かに決めた。
もう、aさんを家に呼ぶことはないだろう、と。

 手癖の悪い人間というのは、どんなものでも持ち去るのか。
どうせなら、母が作った軍手のピエロや、オーストラリア土産のコアラのクリップも持っていってくれればいいのに――そんな皮肉が心の端をかすめる。
夫は祝杯をあげてすっかり酔いつぶれ、私は重たい身体を引きずるようにして、彼を寝床へと連れて行った。



 数日後、梅雨の晴れ間がようやく顔を覗かせた午後、bさんから電話があった。
彼女はaさんの家の玄関先で立ち話をしていたという。
ふと廊下のゴミの山に目をやると、見覚えのある黒い人形が、他の廃品に埋もれるようにして転がっていたというのだ。

 「あの人形って、あなたの家のやつじゃないの?」

 bさんの問いかけに、aさんは膝から崩れ落ち、声を上げて泣き出したという。
そしてbさんに連れられ、黒い人形と共に我が家を再び訪れた。
玄関のドアが開いた瞬間、湿った空気とともに、奇妙な緊張感が部屋の中を満たした。

 aさんは泣きながら、手を合わせて謝罪した。
「欲しくないのに、手が勝手に動いてしまうんです……」その言葉は、盗まれた物が物だけに、妙な説得力を持っていた。
bさんは隣で厳しく叱責したが、私は心のどこかで、彼女を責めきることができなかった。
人は、時に自分でも制御できない衝動に突き動かされるものだ。
私は、aさんの夫と相談し、心療内科への通院を条件に、警察沙汰にはしないことを約束した。

 それにしても、コアラのクリップも一つ減っていたとは、後になってbさんに指摘されるまで気づかなかった。
aさんは、黒い人形をゴミの日に瓶ゴミと一緒に捨てるつもりだったのだという。
人形は、ゴミの中でひっそりと、誰にも見つけられぬまま消え去るはずだったのだ。



 夕暮れ時、夫が帰宅した。
キッチンカウンターに戻ってきた黒い人形を見つけるなり、「くわっ」と奇妙な声を上げた。
私は思わず吹き出し、慌てて冷蔵庫から油揚げを取り出した。
やけ酒のあとの夫のために、簡単なつまみを作らなければ。

 人に盗まれても、結局は戻ってくる黒い人形。
まるで、この家に取り憑くかのように。
私はその夜、焼き上がった油揚げの香ばしい匂いを嗅ぎながら、ふと、黒い人形の大きな白い目がこちらを見ている気がして、背筋に小さな寒気が走った。

 人は、時に自分の意志ではどうにもならないものと共に生きてゆく。
忘れたふりをしても、遠ざけたつもりでも、気がつけばまた、すぐ傍に戻ってきている。
そういうものなのだ――この世界も、人の心も、そして、呪いの人形も。

 夜が深まるにつれ、静けさが家を包んだ。
私はふと窓の外を見上げた。
雲の切れ間から、ほんのわずかに月が覗いていた。
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