季節は春から初夏へと静かに移ろい始めていた。
窓の外には、東京特有の白っぽい街灯が、湿り気を帯びた夜気をぼんやりと照らしている。
私は最終電車が近づく終業間際のオフィスで、パソコンの画面に向かいながら、ふとした拍子に胸の奥がチクリと痛むのを感じていた。
S君のことだった。
ゼミで過ごしたあの大学時代から、もう数年の月日が流れているのに、心のどこかに彼の存在が棘のように刺さったまま抜けずにいる。
その痛みは、仕事に追われる日々の中でさえ、時折私の意識を引き戻してくるのだった。
あの頃のゼミ室は、いつも午後の光が斜めに差し込んでいて、S君の穏やかな声や、ノートをめくる指先の動き、時折見せる不意の笑顔が鮮烈に焼き付いている。
けれど私は、想いを伝える勇気を持てなかった。
卒業式のあの日、教室の片隅で彼が仲間たちと談笑している光景を、ただ遠くから眺めるしかできなかった自分の弱さ。
それが今も私の中で後悔となって渦巻いている。
社会人になり、毎日が矢のように過ぎていく中でも、月に一度のゼミのメンバーでの集まりだけは、私にとって特別な時間だった。
職場の無機質な蛍光灯や、通勤電車の押しつぶされるような人波とは異なり、あの集まりには学生時代の空気がそのまま流れている気がした。
懐かしい笑い声、ビールの泡のはじける音、居酒屋のざわめき、テーブルの上で交わされるグラスの乾いた音――。
けれど、仕事の責任が増すにつれて、どうしても予定が合わず、顔を出せないことも増えてきた。
胸の奥に、少しずつ冷たい隙間が生まれていくようだった。
とうとうその日、私は月一のゼミ飲みをキャンセルすることになった。
グループLINEに「ごめん、今月は仕事が押して無理そう」と送信した瞬間、指先がわずかに震えた。
まるで一つの糸が静かに切れる音が聞こえたようだった。
これで、S君ともまた距離ができてしまう――そんな焦燥感が、体の底から湧き上がってくる。
会えない時間が増えれば、きっとこの想いも少しずつ薄れていくのだろう。
そう、自分に言い聞かせようとしていた。
しかし、その夜の帰り道、想定していたはずの「薄れる気持ち」は、むしろ逆に私を強く揺さぶってきた。
駅のホーム。
人影はまばらで、終電を待つ人々の沈黙が空気を重くしている。
ホームのコンクリートは夜露に濡れ、ほのかにアスファルトと電車のオイルが混じり合った匂いがした。
私は無意識に自分のスマートフォンを手に取った。
画面には、未読のLINEメッセージが一つ、ぽつんと浮かんでいた。
それはS君からだった。
「ゼミ飲み来れなくて大丈夫? 仕事忙しいのかな。
今日は会えると思ってたから残念。
また会えるのを待ってるね」
文章の後には、ふわりとした「お疲れさま」のスタンプが添えられていた。
S君らしい、柔らかな気遣いがそのまま言葉に滲んでいる。
一読した瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
息を呑み、ホームの冷たい風に包まれながら、私は自分の頬が静かに熱を持つのを感じた。
心臓が早鐘を打ち、指先には微かな汗がにじむ。
S君は、私が来ることを期待してくれていたのだ。
あの日伝えられなかった想いが、時を超えて、再び私の中で膨らみ上がる。
LINEの短い文面の向こうに、彼の声や表情がはっきりと浮かび上がってくる。
彼の声のトーン、話すときの間、真剣なまなざし――それら全てが一気に蘇ってきた。
私は、思い出の中の自分に問いかける。
「本当にこのままでいいの?」と。
諦めようとしていたはずの想いが、今、確かな形を持って私の胸の内に居座っている。
これまでの迷いや臆病さ、過去の後悔が、静かにほどけていくような気がした。
電車がホームに滑り込んできて、ドアが重く開く。
その瞬間、私は決意する。
次にS君に会えたときこそ、今度こそ、ちゃんと「好き」と伝えよう。
あの時の自分を超えて、もう一度だけ、素直な自分で向き合おうと。
終電の車内は、眠そうな人々の吐息と、窓の外を流れる街灯の光に満ちていた。
その夜、私は揺れる車両の中で、S君からのメッセージを何度も繰り返し読み返しながら、ほんの少し、未来に希望を感じていた。
恋愛の話:終電間際のホームで気づく、取り残された想いと再会への決意――月一のゼミ飲みを欠席した夜
終電間際のホームで気づく、取り残された想いと再会への決意――月一のゼミ飲みを欠席した夜
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