灰色の梅雨空が、ビルの窓ガラス越しにぼんやりと社内を照らしていた。
うっすらと煙草の残り香が染みついた事務所の空気は、夕方になっても蒸し暑く、書類の山の隙間から漏れる蛍光灯の冷たい光が、机上に無数の影を落としていた。
その日、時計の針が午後五時を指しても、僕の視線はある一点に釘付けだった。
Tくん、僕の後輩であり、この春入社したばかりの新人は、まだ帰社していなかった。
Tくんが手にしていたのは、額面十億円の手形。
紙一枚とはいえ、その重みは、会社の運命すら左右しかねない。
集金のため、午前中に出かけていった彼の後ろ姿が、今も脳裏に焼き付いている。
小柄で、どこか頼りなく、しかし目だけは不思議な光を湛えていた。
彼が出ていった直後の社内は、いつものざわめきを湛えていたが、次第にその熱気は不穏な沈黙へと変化していく。
夕刻、電話のベルが鳴るたびにみんなが弾かれたように顔を上げる。
集金先、得意先、立ち寄りそうな喫茶店、駅の遺失物取扱所──手当たり次第に電話をかけまくった。
受話器越しに響く無機質な呼び出し音と、けだるげな店員の声。
誰もTくんを見ていない、と繰り返される返答に、胸の奥がじわじわと冷たくなっていった。
窓の外では小雨が降り続き、街灯の光が滲んでいた。
誰もが、ただ無言で時計を睨みつける。
空気が重く、梅雨独特の湿気が皮膚にまとわりついて不快だった。
夜九時。
机の上に置かれた冷めたコーヒーは、唇に触れると苦味だけを残す。
会社には数人が居残り、誰もが顔色を失いながらも、まだどこかにTくんの姿が現れるのを待っていた。
誰かが「警察に届けたほうがいいのでは」と呟くと、重い沈黙がさらに社内を満たした。
十億円という現実的な数字が、全員の肩にのしかかる。
僕の手のひらは汗ばんでおり、背中を冷たい悪寒が這い上る。
Tくんが暮らす独身寮にも電話をかけたが、寮母の淡々とした声が「戻っていません」と告げるだけだった。
夜が更けていくにつれ、窓の外の闇が社内にまで染み込んでくるようだった。
誰もが自分の責任を問い、Tくんの姿を思い浮かべては、最悪の結末を想像してしまう。
僕自身、その夜はほとんど眠れなかった。
布団の中で、Tくんの不器用な笑顔や、彼が手形を受け取る時のわずかな手の震え、あの日の社内のざわめきが脳内を何度もリフレインした。
翌朝、空は重々しい曇天だった。
始業のチャイムが鳴る直前、社内の空気は張りつめていた。
みんなの動きはどこかぎこちなく、誰もがTくんの話題を避けていた。
警察への捜索願を出すべきかという話が持ち上がったその矢先、玄関のドアがきしむ音がした。
その瞬間、空気が震えた。
Tくんだった。
彼は、昨日と同じスーツ姿で、しかし顔にはどこか晴れやかな表情を浮かべていた。
手には、無事に回収された十億円の手形。
安堵と驚愕、そして怒りと呆れが、社内を渦巻く。
僕は、真っ先にTくんを呼び寄せ、問い詰めた。
Tくんは最初、バツが悪そうに目線を落としていたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。
どうやら、集金先の受付嬢に、以前から何度か軽口を叩いていたらしい。
その日、ついにOKの返事をもらい、嬉しさのあまり彼女と飲みに出かけてしまったという。
彼の語る場面が、まるで映像のように脳裏に浮かぶ。
照明の落ちた居酒屋、グラスのぶつかる音、アルコールの匂いに混じる彼女の香水の甘い香り。
Tくんは緊張で喉が渇き、ビールを一気に飲み干したことだろう。
会話の合間、彼は時折、手形の入った封筒を何度も確かめたはずだ。
しかし、酔いが回るうちに、彼は終電を乗り過ごし、気がつけば聞いたこともない駅のホームに立っていたという。
そのまま、駅前の花壇の縁に腰を下ろし、湿った夜風に吹かれながら、朝まで眠ってしまったのだった。
翌朝、彼の目覚めとともに、湿った土と草の匂い、遠ざかる電車の音、まだ覚めやらぬ頭の重さ。
それでも、手形が無事であったこと、そして会社に戻らなければならないという責任感が、彼を立ち上がらせた。
それは、彼の中に眠る不思議な逞しさの発露だったのかもしれない。
社内は、安堵と呆れとが入り混じった奇妙な空気に包まれていた。
僕は、Tくんの破天荒さに驚きつつも、なぜか心の奥で確信した──この男は、必ずや大物になる、と。
あれから幾年もの時が流れた。
今、Tくんは営業部長として、かつての自分のような新人たちを率いている。
彼の後ろ姿には、あの日の不安や未熟さは微塵もない。
重責を背負いながらも、どこか軽やかで、人を惹きつける不思議な力を纏っている。
社内を照らす朝の光の中、Tくんの歩みは、まるで新しい物語の始まりを告げているかのようだった。
仕事・学校の話:「消えた新人と十億円の手形──夜を越えた捜索と運命の朝、営業部長への軌跡」
「消えた新人と十億円の手形──夜を越えた捜索と運命の朝、営業部長への軌跡」
🔬 超詳細 に変換して表示中
読了
スワイプして関連記事へ
0%
記事要約(300文字)
ダミー1にテキストを変換しています...
0%
変換中
コメント