夜の帳が静かに街を包み込む頃、私はオフィスの窓辺に立ち尽くしていた。
東の空はすでに濃紺に染まり、街灯の明かりがまるで星座のように路地を照らしている。
遠くで電車の警笛が、寂しげな獣の遠吠えのように響いた。
Tは、私の後輩だった。
春の雨上がりの朝、まだ街の空気が湿り気を帯び、桜の花びらが舗道に貼りついていた頃、彼は新しいスーツに身を包み、少し大きめの鞄を提げて入社してきた。
どこか浮世離れした無垢な笑顔と、妙な度胸だけが取り柄の青年だった。
その日、Tは、初めて一人で客先へ集金に向かった。
回収する手形の額面は、十億円――その重みを、彼はどれほど感じていただろうか。
私は朝、彼の背中を見送りながら、「あいつは大丈夫だろうか」と、胸の奥で小さな不安を育てていた。
しかし、日が傾き、オフィスの空気が焦げたコーヒーの匂いに満たされても、Tは戻らなかった。
携帯もポケベルもない、遠い日のことだ。
連絡の術はなく、私たちは手分けして、思い当たる限りの場所に電話をかけた。
近所の喫茶店、行きつけの定食屋、駅前の古びた書店――受話器の向こうからは、どこも「知らない」と短く返されるだけだった。
夜の九時。
事務所にはただ、時計の針の音と、誰かのため息だけが残った。
十億円の手形が、見知らぬ夜道を彷徨っている。
それは、現実というよりも、悪い夢のようだった。
私は指の間に冷たい汗を感じながら、Tの顔を思い浮かべていた。
彼の無邪気な笑顔が、今はやけに遠い。
Tの住む独身寮にも、灯りはなかった。
彼は、どこへ消えたのか。
夜は更け、ビルの窓には自分たちの影だけが揺れていた。
朝靄が街を薄絹のように包む頃、私たちは再び、オフィスの椅子に沈んでいた。
苦いコーヒーが、眠気とともに昨夜の不安も流し込んでくれることを願いながら。
定時になっても、Tは現れない。
警察に捜索願を出すべきか――そんな議論が始まったまさにその時、ドアが静かに開いた。
「おはようございます」
Tが、何事もなかったかのように現れた。
昨日と同じスーツ、けれどネクタイは曲がり、髪は少し乱れている。
手には、無造作に手形の入った封筒を握りしめて。
「どこに行ってたんだ!」
誰かが声を荒げた。
私は、安堵と怒り、そのどちらともつかない複雑な感情に包まれていた。
Tは、バツの悪そうな笑みを浮かべ、首をすくめた。
「すみません……その、ちょっと、飲みすぎちゃって」
話を聞けば、Tは客先の受付嬢に、前々から淡い想いを寄せていたらしい。
その日、勇気を振り絞って誘いをかけたところ、思いがけず「いいですよ」とほほえまれた。
Tは有頂天になり、そのまま彼女と夜の街へと繰り出したのだ。
酒と会話に酔いしれ、気づけば終電を逃していた。
次に目覚めたとき、そこは見覚えのない駅の前。
春の夜風が、彼の頬を優しく撫でていた。
駅前の花壇に身を横たえ、夜明けまで眠ったという。
私たちは、しばし言葉を失った。
呆れるやら、可笑しいやら、それでも内心どこかで「こいつは、きっと大物になる」と確信している自分がいた。
それから幾星霜。
Tは、いまや営業部長として、部隊を指揮している。
春の朝、窓の外で桜が舞うたびに、あの奇妙な夜の記憶が、ふいに蘇る。
人は、何を失い、何を得て大人になるのだろうか――今も、私は自問し続けている。
仕事・学校の話:朝靄に消えた手形と、春の夜の迷い人
朝靄に消えた手形と、春の夜の迷い人
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