あの日の空は、初夏特有の蒸した青さに薄い雲が散り、陽射しは午後の河原に微細な揺らぎを落としていた。
葬式の重い空気を逃れて多摩川の河原を歩き始めた私は、まだ幼さの残る心で、どこか現実から切り離された浮遊感を味わっていた。
大人たちの悲しみや慌ただしさから遠ざかろうと、背広姿の親戚たちもいない、静かな場所を求めて川辺へと足を運んだのだ。
踏みしめる草は湿り気を帯びて柔らかく、足裏にひんやりとした感触が伝わる。
時折、羽虫が前を横切り、遠くでは水鳥の鳴き声が風に乗って届いてくる。
川の流れは予想外に静かで、岸辺の石や流木の隙間に小さな波紋をつくり、光が反射してちらちらと眩しい。
私は、風に運ばれた草の青臭さと、どこか生温い泥のにおいを感じながら、滑るように土手の斜面を下っていった。
その時、不意に視線の端が奇妙な違和感を捉えた。
背の高い茂みに隠れるように、斜面の中ほどに小さな黒い空洞がぽっかりと口を開けていたのだ。
周囲の草はその部分だけ不自然に倒れ、まるで誰かがそこを避けるようにして歩いた痕跡があった。
穴の縁には、濡れたような土がまとわりつき、湿っぽい冷気が微かに漏れている。
私は思わず足を止め、穴の奥へと視線を送り込む。
内部からはほのかに光が漏れていた。
不自然な橙色の光は、まるで遠い場所で焚かれた火が揺らめいているようにも見える。
私は、躊躇いと好奇心の間で心臓が早鐘を打つのを感じながら、しゃがみこみ、手を土に着いて穴の中を覗き込んだ。
ひんやりと湿った土の匂いが鼻を刺激し、息を詰めて耳を澄ますと、どこかで木が軋むような微かな音が聴こえた気がした。
私は衝動的に、その穴の中へ這い進んでいった。
草の葉先が頬を撫で、スラックスの膝に泥が染みる。
狭い通路は時折、頭上の根が垂れ下がり、暗闇の中で手探りしながら進まなければならなかった。
心の奥に渦巻くのは、未知への恐れと、子供特有の冒険心とが入り混じった複雑な感情だった。
身体は固く緊張し、額には冷たい汗が滲み、呼吸は浅く速まる。
這い進むうちに、穴の傾斜が次第に下へと向かい、空気がより冷たく重くなっていった。
進むごとに、土の匂いは次第に木材の腐朽したような、かび臭い匂いへと変わった。
ふと、目の前に何か平たいものが現れた。
視界の端でそれが板壁であることに気づき、私はそこで動きを止めた。
手探りで壁に触れると、ざらついた木の感触と、そこに貼り付けられた紙の乾いた感触が同時に伝わる。
ふいに、背後から冷たい風が吹き抜け、私は恐怖に駆られて穴を這い戻ろうとした。
しかし、穴の出口はもうそこにはなく、気づけば自分が暗い床下空間に立ち上がっていた。
頭上には朽ちかけた床板が軋み、隙間から差し込む光が埃を照らしている。
あたりには、長い年月風雨に晒された木材の腐臭と、しめった土の匂いが充満していた。
私は思わず身を縮め、周囲を見渡した。
床下の先に、木造の神社が静かに横たわっていた。
柱は苔に覆われ、屋根の一部は崩れかけている。
境内には人の気配もなく、ただ山の樹々がざわめく音と、どこからか蝉の声が響くばかりだった。
私は混乱と恐怖に支配され、足元が震え、胸が苦しくなるのを感じた。
出口を探して這い出すと、そこには色褪せたお札がびっしりと板壁に貼られていた。
紙は風に揺れ、かすかにざわざわと鳴っている。
私は何が起きたのか理解できず、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを覚えた。
涙が溢れ、息が詰まり、声にならない叫びが喉を絞った。
私は夢中で山道を駆け下り、枝が頬を打ち、足元の石が滑るたびに転びそうになった。
山の空気は湿って重く、鼻腔を満たすのは苔と土の匂いだった。
やがて、舗装された道路に出て、現実の世界へと戻ってきたのだと実感した時、初めて安堵と同時に強烈な違和感が胸を突き刺した。
町の交番にたどり着いた私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で警察官に助けを求めた。
警察官は私の話を途中で遮りながらも、優しく名前と住所を尋ね、手早く親への連絡を取ってくれた。
だが、私が何度問いただしても、「わからない」「謎だ」と、彼も両親もそれ以上は口を閉ざすばかりだった。
彼らの声色には、説明しきれない何かへの恐れや戸惑いがにじんでいた。
後から思い返せば、あの日の私の心には、幼いながらも現実と非現実の境目が崩れるような感覚が残った。
あの穴は本当に存在したのか。
神社の床下は、どこの山のどの場所だったのか。
どこかで時空のひずみに飲み込まれたのではないかという疑念が、今も胸の奥底に渦巻いている。
14年という長い年月が経った今でも、あの時感じた冷たい土の感触や、板壁のお札のざらざらした手触り、夕暮れの山の湿った空気の重さは鮮烈に記憶に焼き付いている。
現実の隙間にひそむ不可解なもの、説明のつかない恐怖と不思議。
あの日の体験は、今も私の内側で静かに息を潜め、時折、夢の中であの穴の奥から誰かが呼ぶ声となって蘇るのだ。
不思議な話:多摩川の草むらに口を開けた異界の穴と、時空を超えて山中の神社へ彷徨した十四年前の一日
多摩川の草むらに口を開けた異界の穴と、時空を超えて山中の神社へ彷徨した十四年前の一日
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