あの日の空は、どこまでも青かった。
葬式の余韻が冷たく胸に沈む午後、私は多摩川の河原を一人歩いていた。
春先の風はまだ肌寒く、湿った草の匂いが鼻をくすぐる。
親戚に囲まれた重苦しい空気から逃れるように、私は草むらの奥へと足を進めていた。
小石が靴の裏で転がり、小さな音を立てる。
遠くで電車の警笛が、まるで寂しげな獣の遠吠えのように響いた。
手を伸ばせば届きそうなほど近くに、川の流れが鈍く光っていた。
そのときだった。
土手の斜面、背の高い雑草の影に、ぽっかりと空いた異様な穴を見つけたのだ。
中から淡い光が漏れ、まるで誰かに誘われるように私は身を屈めた。
好奇心が、理性の声を押しのけていた。
冷たい土の感触が手のひらに伝わる。
膝を擦りながら、斜め下に延びる狭い通路を進む。
心臓が、不安と期待で小刻みに脈を打つ。
先へ、もっと先へと、何かに引き寄せられていった。
やがて、闇の先に木の板壁が立ちはだかった。
そこには道がもうなかった。
振り返ろうとするが、背後の闇が思いのほか深い。
私は、息を呑み、壁に手をついて這い出した。
眩しいほどの陽射し。
目が慣れるまで、数秒の永遠が過ぎる。
気づけば、私は見知らぬ山中の古びた神社の縁の下にいた。
朽ちかけた柱、苔むした床板。
どこからか木々のざわめきが聞こえる。
さっきまでいた多摩川の気配は、どこにもなかった。
振り向くと、出口の板壁には色褪せたお札が何十枚も重なり貼られている。
風化した紙片の一枚一枚が、何かを封じ込めようとしているようだった。
ぞくりと背筋が冷たくなる。
恐怖と混乱、説明できない不条理に心が締め付けられる。
「ここは……どこ?」
思わず声が漏れた。
誰も答えない。
泣き叫びながら山道を駆け下りる。
喉が焼けつき、涙が頬を伝う。
擦り傷からじわりと血が滲んだ。
幸いにも、舗装された道路に出た。
人の気配もない、静かな午後。
私は道沿いを歩き続け、ようやく町の交番に辿り着いた。
制服を着た警察官が、私を見るなり慌てて駆け寄ってくる。
「どうしたんだ? 名前と住所は言えるかい?」
私は、途切れ途切れに事情を話した。
警察官は首を傾げながらも、手際よく両親に連絡を取ってくれた。
「何があったのか……本当に?」
答えは、どこからも返ってこなかった。
警察官も、駆けつけてきた両親も、ただ困惑し、「わからない」「謎だ」と繰り返すばかり。
その日、私は親戚の葬式に出るため、多摩川の河原で時間をつぶしていた。
年の近い親戚もおらず、ただひとり。
あの奇妙な穴は川と土手の間の斜面にあり、草に隠されていた。
内部から漏れた光だけが、私を誘った。
時が経ち、あの午後の出来事は未だに説明がつかない。
あれは、現実だったのだろうか――。
時空を越えたような異界の体験は、今も私の心に深い影を落としている。
あの日の川のせせらぎ、草の匂い、そして出口に貼られた無数のお札。
すべてが、夢のようにはかなく、しかし確かに私の記憶に残っている。
今でも時折、思い出す。
あのとき私は、いったいどこへ迷い込んでしまったのだろうと。
不思議な話:時の狭間に消えた午後――多摩川河畔、子どもの眼が見た幻
時の狭間に消えた午後――多摩川河畔、子どもの眼が見た幻
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