薄暗いオフィスに忍び寄る恐怖と、沈黙に潜む葛藤――事務女性を巡る静かな異変の記録

午後六時を過ぎたオフィスは、窓の外の街灯がぼんやりと照らすだけで、天井の蛍光灯もどこか頼りなく、机上に伸びる影は長く鋭い。
パソコンの冷たいファン音と、時折廊下を誰かが通る足音が反響し、静けさが逆に耳を圧迫していた。
僕の席から斜め向かい、デスクの隅で書類を束ねる事務の女性――仮にAさんと呼ぼう――は、今日もどこか落ち着かない様子だった。
肩越しに時折誰かを気にするような視線を窓に送り、手元の指がほんのわずか震えているのを、書類の紙が擦れる微かな音で僕は気づいた。

直接言葉を交わしたわけではない。
けれど、彼女の身に何か異変が起きているのは、ここ数週間、僕の中で確信に近いものへと変わっていた。
昼休み、社員食堂で彼女の姿を探すと、いつも決まって同じ男性社員――背が高く、無表情で、声のトーンが妙に低いBさんが、彼女の隣に「偶然を装って」座っている。
Aさんの表情は、微笑の仮面の下に、強張った顎と、視線を泳がせる不安を隠していた。
周囲のざわめきや食器の触れ合う音が、彼女の沈黙を際立たせる。
僕が近づくと、Aさんは少しだけ安心したように見えるが、それ以上は何も語らない。
彼女の口元は固く結ばれ、声をかけると少し乾いた返事が返ってくるだけだった。

ある日、帰宅時の出来事が噂として僕の耳に入った。
駅の改札前、夜風に吹かれてどこか湿った空気の中、Aさんが改札を出ようとしたその瞬間、出口の脇にBさんがじっと立っていたという。
人波の中で、彼の存在だけが異物のように浮かび上がり、Aさんは一瞬立ち止まり、肩を竦めてうつむいたらしい。
その姿を見た同僚は、「まるで待ち伏せされてるみたいだった」と、どこか怯えた声で語っていた。

さらに不可解なのは、Aさんが自分から決して教えていないはずの携帯番号やメールアドレスを、Bさんがなぜか知っているという点だった。
誰がどこで漏らしたのか、あるいは何か方法を使ったのか。
その夜、僕は自分のスマートフォンを握りしめ、Aさんの番号やメールアドレスを何とか伝手で入手できないかと、数人の友人に連絡を取った。
しかし、その返事はどれも素っ気なく、まるで皆が何か腫れ物に触るような態度だった。
胸の奥にじわじわと広がる不安は、冷たい汗となって背中を伝い、息が詰まるような感覚を残した。

翌日、僕は思い切ってAさんに「一緒に昼を食べませんか」と声をかけてみた。
彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく微笑み、「今日は…ちょっと」と声を濁した。
その時、彼女の視線がどこか遠く、周囲を警戒するように揺れていたことを、僕は忘れられない。
僕の申し出が、逆に彼女の負担になっているのではないかという自己嫌悪が、喉の奥で苦い味になった。

日々の小さな異変が積み重なっていく中、オフィスの空気もどこか重苦しくなっていった。
Aさんが席を立つたび、Bさんの視線が無言で追いかける。
誰もが気付いているのに、見て見ぬふりをしている。
書類をめくる音、エアコンの低い唸り、湿った空気、蛍光灯の白い光。
全てが、何かが起こる前の静寂のようだった。

僕は本当に心配している。
けれど、彼女にどう声をかければいいのか、どんな行動をとれば力になれるのか――答えは見つからない。
自分の無力さに苛立ち、夜遅く帰宅した部屋で、窓の外の夜景をただぼんやり眺めるしかなかった。
心臓の鼓動は妙に速く、部屋の静けさに耳鳴りが混じる。
Aさんが今もどこかで怯えているのではないか、そんな想像が頭から離れない。

誰か、どうか彼女を助けてほしい。
僕はただそれだけを、切実に願っている。

（26歳 営業課平社員）