笑える話:薄明の駅で待つ影――或る営業社員の記録

薄明の駅で待つ影――或る営業社員の記録

📚 小説 に変換して表示中
朝靄が高層ビルの谷間をゆっくりと滑り降り、都会の目覚めを柔らかく包み込んでいた。
窓辺に立ち尽くし、僕は熱いコーヒーに口をつけた。
苦味が舌に広がるたび、胸の奥に残るざらついた不安だけが濃くなっていく。
その正体は、最近職場で感じる微かな異変だった。

 彼女――総務の佐伯さんは、春の陽だまりのような微笑みを持つ女性だ。
だが、ここ数日、彼女の目の奥に影が差しているのを僕は見逃せなかった。
何かを恐れるように、時折、肩を竦めて振り返る。
その仕草が、僕の心に小石を投げ続けていた。

 ある昼下がり、社の食堂で彼女の隣の席に座ると、彼女はわずかに身体を固くした。
窓の外では、白い雲が薄く千切れていく。
「最近、元気ないですね」と声をかけても、彼女は小さく首を振るだけだった。
その沈黙の重さが、やがて僕の胸を締め付け始める。

 噂は、湿った紙のように静かに広がっていた。
同じ会社の男――営業部の同僚らしい――が、彼女のランチタイムに必ず現れ、隣の席を譲らないという。
さらに、夕暮れの駅、改札口で彼女を待ち伏せている姿が、何度も目撃されていた。
夕焼けに染まった人波の中、その影はぬめるように彼女の後を追っていたのだ。

 ある日、僕は意を決して彼女に尋ねてみた。
「困っていることがあるなら、話してくれませんか?」彼女は一瞬、黒目を揺らした。
しかし、すぐに遠くを見るような目で「大丈夫ですから」とだけ告げた。
声は透明で、どこか壊れそうだった。

 それでも僕は、彼女の昼食に付き合い、帰り道には敢えて駅で待った。
だが、彼女はどこか遠慮がちに距離を取る。
信頼されていないのか、それとも僕の力では何も変えられないのか。
焦燥が、冷たい手すりのように掌を冷やした。

 夜、机上の携帯電話を見つめながら、僕は伝手を頼って彼女の連絡先を探した。
だが、返ってきたのは素っ気ない返事だけだった。
「心配しすぎよ」と誰かが笑う。
けれど、胸の奥で警鐘が鳴り止まなかった。
誰にも話せない、言いようのない不安が、静かに膨らんでいく。

 窓の外、夜の闇がビルの隙間に沈み込んでいく。
遠くで電車の警笛が、まるで寂しげな獣の遠吠えのように響いた。
彼女は今も怯えているのだろうか。
その影は、今日も駅の片隅で彼女を待っているのかもしれない。

 どうしたら彼女を救えるのだろう。
僕は自問し続ける。
正義感というにはあまりに脆弱な、けれど捨て去ることのできないこの感情だけが、ひたすらに胸を打ち続ける。

 朝がまた、静かにやってくる。
僕は今日も、彼女の小さな変化を見つめるだけだ。
読了
スワイプして関連記事へ
0%
ホーム
更新順
ランダム
変換
音読
リスト
保存
続きを読む

コメント

まだコメントがありません。最初のコメントを投稿してみませんか?

記事要約(300文字)

ダミー1にテキストを変換しています...

0%
変換中