朝靄が高層ビルの谷間をゆっくりと滑り降り、都会の目覚めを柔らかく包み込んでいた。
窓辺に立ち尽くし、僕は熱いコーヒーに口をつけた。
苦味が舌に広がるたび、胸の奥に残るざらついた不安だけが濃くなっていく。
その正体は、最近職場で感じる微かな異変だった。
彼女――総務の佐伯さんは、春の陽だまりのような微笑みを持つ女性だ。
だが、ここ数日、彼女の目の奥に影が差しているのを僕は見逃せなかった。
何かを恐れるように、時折、肩を竦めて振り返る。
その仕草が、僕の心に小石を投げ続けていた。
ある昼下がり、社の食堂で彼女の隣の席に座ると、彼女はわずかに身体を固くした。
窓の外では、白い雲が薄く千切れていく。
「最近、元気ないですね」と声をかけても、彼女は小さく首を振るだけだった。
その沈黙の重さが、やがて僕の胸を締め付け始める。
噂は、湿った紙のように静かに広がっていた。
同じ会社の男――営業部の同僚らしい――が、彼女のランチタイムに必ず現れ、隣の席を譲らないという。
さらに、夕暮れの駅、改札口で彼女を待ち伏せている姿が、何度も目撃されていた。
夕焼けに染まった人波の中、その影はぬめるように彼女の後を追っていたのだ。
ある日、僕は意を決して彼女に尋ねてみた。
「困っていることがあるなら、話してくれませんか?」彼女は一瞬、黒目を揺らした。
しかし、すぐに遠くを見るような目で「大丈夫ですから」とだけ告げた。
声は透明で、どこか壊れそうだった。
それでも僕は、彼女の昼食に付き合い、帰り道には敢えて駅で待った。
だが、彼女はどこか遠慮がちに距離を取る。
信頼されていないのか、それとも僕の力では何も変えられないのか。
焦燥が、冷たい手すりのように掌を冷やした。
夜、机上の携帯電話を見つめながら、僕は伝手を頼って彼女の連絡先を探した。
だが、返ってきたのは素っ気ない返事だけだった。
「心配しすぎよ」と誰かが笑う。
けれど、胸の奥で警鐘が鳴り止まなかった。
誰にも話せない、言いようのない不安が、静かに膨らんでいく。
窓の外、夜の闇がビルの隙間に沈み込んでいく。
遠くで電車の警笛が、まるで寂しげな獣の遠吠えのように響いた。
彼女は今も怯えているのだろうか。
その影は、今日も駅の片隅で彼女を待っているのかもしれない。
どうしたら彼女を救えるのだろう。
僕は自問し続ける。
正義感というにはあまりに脆弱な、けれど捨て去ることのできないこの感情だけが、ひたすらに胸を打ち続ける。
朝がまた、静かにやってくる。
僕は今日も、彼女の小さな変化を見つめるだけだ。
笑える話:薄明の駅で待つ影――或る営業社員の記録
薄明の駅で待つ影――或る営業社員の記録
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